浴衣
幸福であることが他人に対しても義務であることは、じゅうぶんに言われていない。幸福である人以外に愛される人はいない、というのは適切な言である。しかし、この褒美が正当なものであり、当然のものであることは忘れられている。
― アラン 『幸福論』 (白井健三郎 訳)―
そうですか。
試着室ですか。
私の試着室はGパンの裾上げのためだけ。
もちろん、そこにいる間、何も、誰も、思い出しません。
「本物」も「贋物」もありません。
何もない。
試着室で思い出すべき人がいる人は、それだけでしあわせというものです。
そこへいくと、男なんぞ、ツマランもんです。
ところで、土曜日、夕刻バスに乗ったら、金沢の街は浴衣の娘さんたちでいっぱいでした。
バスの中にも4人ほど。
花火大会があるんですな。
そして、浴衣の娘さんたちはみな、お酒を飲んだわけでもないのに、軽い興奮状態です。
はしゃいでいます。
浴衣を着た彼女たち、みんなしあわせなんです。
浴衣に限りません。
女の人は新しい服を着るとたいてい一種の躁状態になります。
それはなにも年頃の娘さんたちだけじゃあ、ありません。
頭に大きなリボンなんか付けてるちっちゃな女の子も、子供の入学式やら卒業式に向かうお母さんも、皆、鼻の穴が少し広がってる。
それは、しあわせのしるしです。
手持ちの辞書に「おしゃれ」の文字がない私にはわかりません。
わかりませんが、そんな女性たちを見ると、なんとなく、
ふふふ
って思ってしまう。
高校に入った女の子はみんな新しい制服姿を見せびらかしに来ます。
やっぱり、
ふふふ
です。
もちろん彼女たちの誰も、試着室で私のことなんて思い出しはしないんですけどね。
でも、自分のうれしさのおすそわけに来てくれる。
自分のうれしさが私もうれしくさせると信じている。
そして、そのことはとてもいいことです。
自分のしあわせな気分を相手も喜んでくれるって信じている女の人を見るのはよいものです。
まして、その相手に自分が選ばれることは。
お祭りとか花火大会とか成人式とかは、ひょっとしたら、女の人たちが町で彼女たちに出会う男の人たちみんなを自分のうれしさを分かち合う相手にしてくれる日なのかもしれません。
そんな日が年に何回かあるのはとてもいいことです。
自分が見られていると思っている女の人たちがいる町はとてもはなやぎます。
彼女たちは美しい衣服を着た心地よい緊張感の中で自分を幸せにすることができます。
そして、そうやって「自分が幸福であるという他人に対する義務」を果たしている女の人たちがたくさんいる町は、きっとしあわせな町であるはずです。