私のいない高校
ヒマワリの茎は、花がひらくまえまでは、日があたるほうへかたむく。茎の日があたる側とあたらない側とで、生長の速度がちがうからだ。花がひらきはじめると、茎のかたむき運動は、とまる。生長ホルモンが開花ホルモンにかわり、茎の生長がとまるからだ。
― 埴 沙萌 『植物記』 ―
昨日帰ってきたらポストに高校の同窓会報というのが入っていた。
会費も払っていないのにこれが年に一、二度届く。
会費を払わないというのは、
そんなもの、要りません
ということだとは理解されないらしい。
見れば
《同窓会は「青春カムバックの場」》
などという見出しの文章が載っている。
もちろん、読まない。
キモチがワルイ。
十日ほど前の朝日新聞に『私のいない高校』という小説の書評が載っていた。
実はこれは、その書評を読んでもどんな小説なのか一向わからない書評だったのだが、この小説の題名だけは、
ちょっと、すごいなあ
と思った。
なあるほどね
と思った。
私の高校は私の家の墓へ行く道の途中にある。
だから今回の帰省でも歩いてその横を通った。
そこは《私のいない高校》である。
夏休みだというのに野球部は練習しており、そのほか制服を着た高校生たちが校庭のあちこちで何かをしている。
昔はどこからでも入れたプールは囲われて見えなかったが、たぶん水泳部も練習してたんだろう。
背泳ぎしながら夏の青空見てる奴だっていただろう。
けれど、それは《私のいない高校》である。
そこはあの頃の私たちと同じような若者が同じようなことをしている場所だ。
見ればなんとなく頬がゆるむが、そこは《私のいない高校》である。
そこは私が通り過ぎ二度と戻らぬ場所である。
なあるほど。
そうやって高校の脇を通りながら私はやっぱり思った。
もし、あの世があって、死んだあと私がそこからこの世を眺めたら、やっぱりきっとこんなふうに見えるんだろうなあ、と思った。
あの世から見れば、この世はきっと《私がいない高校》なんだろうなあ、と思った。
見ていれば、なんとなく頬はゆるむが、けれどけっして戻りたいなどとは思わない場所。
死ぬって、きっとそんなことなんじゃないかなあ。
そして、ぼくらはそんな風にして実は何度も「死」を経験しているんじゃないのかなあ。
実際『私のいない高校』という小説がどんなことが書いてあるのかは知らないが、ただ題名だけでそんなことを思ったのだった。
まあ、こんな話「青春カムバック」なんて言ってる人にはわかってもらえそうもないのだが。
たぶん、日を追いかけ、その方に茎を傾ける期間を「青春」というのだ。
開花してなおそのような運動をした昔に「カムバック」などと言う人はキモチがワルイ。