思い出
あの夏の数かぎりなきそしてまたたった一つの表情をせよ
小野茂樹
昨日テレビのニュースを見ていたら明日(つまり今日)から夏休みという被災地の小学校の子供が
「つらいことがあったけれど、一学期にたのしい思い出がたくさんできたからよかった」
と言っていた。
たぶんNHKのニュースの制作者はこの言葉をよしとして全国に流したのだろうが、私はなんだかさびしくなった。
というか、私にはわからないのである。
なぜ、子供までもが《思い出》などという言葉を使うのか。
すくなくとも、もしその子が私たちの子供時代の子供ならこう言ったはずである。
「つらいことがあったけれど、一学期にたのしいことがたくさんあったからよかった」
私たちはその学期に起きたことなどを《思い出》などとはけっして呼ばなかった。
どうやら、人びとの間では、いつの間にか《思い出》というものは結果として心に残ったものを指すのではなく、むしろ自分たち自身が意識的に「自らつくるべきもの」に変わってしまったらしい。
そして、「よい思い出」だけを《思い出》としたいらしい。
そうして人々は、何かをするのも、どこかへ出かけるのも、それは《思い出づくり》のためだと、どこかで思っているらしい。
《思い出》とは本来現在から過去へと向けられた視線の中で生じるものだ。
今在る自分を自分たらしめている過去のさまざまを、私たちは《思い出》と呼んできたのだ。
にもかかわらず、いま人びとが語る《思い出》とは、あらかじめ未来を先取りして、そこから現在を見る視線の中で語られている。
しかし、あらかじめ先取りされてしまった未来に《思い出》などありうるのだろうか。
そもそも、あらかじめ先取りされた未来とは、すでに本当の未来ではあり得ないものなのに。
奇怪な時代よ
と私は思うのだが、人々はそうは思わないらしい。
《思い出》を先取りすることが生きることの喜びだと思っているらしい。
そして、「つらい思い出」は消し去ることが人生を豊かにすることだと思っているらしい。
さて、今日の引用の歌。
よく見れば「数かぎりなき」と「たった一つの」と並んだ言葉は論理的におかしい。
おかしいにもかかわらず、この歌を読む者は誰もそれを矛盾とは見ない。
たしかにそんな表情があることをみんな知っているのだ。
そんな夏がたしかにあることを心のどこかでみんな知っているのだ。
恋人の「数かぎりなき」その笑顔も泣き顔も怒った顔も驚く顔も、そのすべてが、この人の前で自分の感情を素直に表しても平気なのだという「「たった一つの」の思いを伝えていた「あの夏」。
だが、それは最後の切ない命令形の中に、今は失われていることが示唆されてこの歌は終わる。
けれども、たしかに「あの夏」はあったのだ。
思い出は残る。
あるいは、残される。
それは、けっしてつくられはしない。