凱風舎
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クロ君

 

      《好きなもの》

 

    逃げないノラ猫。

 

   ― 和田誠 「好きなもの」-

 

 日曜日の毎日新聞の書評欄の下の方に
   《 好きなもの 》
という欄があって、毎週さまざまな人が自分の好きなものを三つ書いている。
 この欄が始まったときのトップバッターは、イラストレーターの和田誠さんだった。
 彼のあげた一番目と二番目は忘れたが、その三番目に今日の引用の言葉が書いてあった。

        逃げないノラ猫。

 なんとステキな答えをする人なんだろうと思った。
 その後も、もちろんこの欄は毎週愉しみに読むのだが、和田氏の 
   逃げないノラ猫。
に匹敵する回答は、かの江夏豊氏の
   ショート・ホープ。
だけだったような気がする。

 さて、和田誠さんのこの文章が出てしばらくたったころ、私の部屋には、一匹のノラ猫がやって来るようになった。
 たとえば夏、昼寝から目を覚ますと、開け放たれた玄関のドアから勝手に上がり込んだその黒い猫が台所の床に坐っているのだ。 
 彼は目を覚ました私と目が合うと実に困惑した顔をした。
 諸君の中には猫に表情なんてあるかと思う人もあるかもしれないが、このクロ君、私と目が合うと、
   いかにもまずいところを見られてしまった
というような顔をするのだ。
 目を覚ました私の顔とドアを等分に見ながら、すでに腰を浮かせている。
 私が少しでも動けばすぐにも逃げ出そうというのだ。
 「ふふ」
 私が笑うと、一杯に目を広げる。
 そして、私が起き上がると、彼は脱兎のごとくドアから跳び出すのだ。
 そのくせ、翌日目を覚ますと、また台所にそいつは坐っているのだ。

 彼は2年あまり私の周りに暮らしていたが、けっして私には慣れなかった。
 餌を置いても、はじめは私が3メートルほど近づけば逃げた。
 最後の頃は30センチでも逃げなくなったが、それでも、警戒はおさおさ怠らず、私が手を伸ばすと彼は腰を浮かし逃げた。
 たぶん、小さな頃、人間によほどつらい目にあわされたのだろう。
 なんだか、とてもかわいそうだった。

 ケンカをしたのかひどく弱っていたクロ君が死んだのは寒い冬の雨の朝だった。
 ドアを開けると部屋の前の古新聞を積んだ中に固くなっていた。
 私は部屋の下の柿の木の根元に彼を埋めた。

 クロ君は「逃げるノラ猫」だった。
 私は、「逃げるノラ猫」も好きだ。