夏の川
うつくしき川は流れたり
そのほとりに我は住みぬ
春は春、なつはなつの
花つける堤に坐りて
こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ
いまもその川のながれ
美しき微風とともに
蒼き波たたへたり
― 室生犀星 「犀川」 ―
流れの水というものは堰(せき)に来ると歓ぶものであるらしい。
特に夏の水は。
堰の手前を、たゆたうように流れるともなく流れていた川の水は、堰の上まで来ると、まるで滑り台の上に立った子供たちのように一斉に声を上げながら白くきらめいて一気に小さなダムを流れ下る。
堰の下で飛沫をあげ泡立った水は、しばらくそこで逡巡した後、ふたたび浅くなった川床の石に身をくねらせながらたのしげにまた旅を続ける・・・。
もっとも、夏の川がそのような幼子のような流れ方をすると思うのは、私のイメージする川が、いつでも犀川だからかもしれない。
同じ日本の川でも水量の多い一級河川や、まして長江やガンジス、ラインといった大陸の川は違うのだろう。
夏河を越すうれしさよ手に草履
という蕪村の句は、徒歩で渡れるほどの浅い石の川原を清流が流れる日本の二級河川でこその詩情だろう。
濁った水が滔々と流れる黄河やガンジスを目にしてはこうはうたえまい。
同じ犀川べりでも、勝田氏は下流域に住み私の家は中流域にあったからその川のイメージは少し違うのだろうが、今日の彼の写真を見て、毎日のように川原で魚取りをしていた小学生のころの夏休みを思い出したことでした。
たしかにそこには
美しき微風
が吹いておりました。