記憶
やまない雨はやまない
満月の夜空にも
やまない雨はふっている
雲ひとつない青空にも
やまない雨はふっている
(中略)
やまない雨はやまない
何年も何年も
そこを濡らし続けて
― 枡野浩一 『くじけな』 ―
さっき来た毎日の夕刊の「詩の遠近影」というコラムに城戸朱理が引用の詩を紹介していた。
よい詩だが、すこし笑った。
『くじけな』
という詩集の題名は、柴田トヨさんというお婆さんが書いたという
『くじけないで』
とかいうベストセラー「詩集」への当て付けらしい、というので・・・。
そのお婆さんの「詩集」は読んだことはないが、きっとそこには
やまない雨はない
などというありきたりの「ハート・ウォーミングな」言葉があるのだろうな。
けれど、そのような言葉は、昨日の
《苦しい経験をして思い返すと、それによって(私の魂)が記憶していることがあり、力になっている。》
という大江健三郎の言葉が立っていたのと同じ地平のものだ。
どちらも(私の魂)について本当に考えたことがない者の言葉だ。
すくなくとも、大江が言う、後で「力になる経験」というものは(私の魂)とは無縁のものだ。
そのことに大江は気づいていない。
むしろ(私の魂)はつぶやくだろう。
やまない雨はやまない
と。
かなしみ、とはそういうものだ。
未練、と言われようと、かなしみはいつまでたってもかなしみだ。
勝田氏の投稿にある美しい『サクリファイス』のスチール写真。
なぜ、主人公はあの映画の始まりで息子と一緒に砂地に枯れ木を立てるのか。
枯れ木を砂地に立て、それに毎日水をやり続ける年月を持たない者に
しかも(私の魂)は記憶する
という昨日の詩句の意味は届かないだろう。
愛する者はいつまでたっても愛する者だ。
晴れようが、月が出ようが、愛する者がかたわらにいないかなしみはかなしみだ。
「何年も何年も/そこを濡らしつづけ」るのは、やまない雨だろうか、涙だろうか、それとも枯れ木にその人がやり続けた水だろうか。
その木に命が甦るのかいなかは知らない。
にもかかわらず、枯れたその木に水をやりつづけずにはいられない者がいる。
そうするのは、大江の言うような、苦しい経験の記憶が力になっているから、ではないだろう。
自らの手でそうせずにはいられないのは、(私の魂)が記憶するからだ。
あるいは記憶こそが(私の魂)だからだ。