「わからん」と言え。
耀かしかつた短い日のことを
ひとびとは歌ふ
ひとびとの思ひ出の中で
それらの日は狡く
いい時と場所をえらんだのだ
ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろごり
ひとの目を囚へるいづれもの沼は
それでちつぽけですんだのだ
私はうたはない
短かつた耀かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
― 伊東静雄 「寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」 ―
「台風で学校休みにならないかなあ」
昨日子供たちは大いに期待していたが、四国でくっきり直角に曲がった台風6号は、太平洋上を列島のへりに沿って蝸牛みたいにゆっくり進んでいるので、当地の学校はめでたく終業式を迎えたらしい。
明日から夏休み。
というわけで、私も今までみたいに一ん日ごろごろ本を読んでる、ってわけにもいかなくなる。
一応、塾と名が付いているので朝から受験生の夏期講習めいたものをやらなければならない。
ということは、この通信を書くのだってなかなか大変なことになりそうだ。
司氏、勝田氏、大石君、その他の方々がたんと書いてくだされば、楽もできるのだが、それでも皆さん、忙しいふりをしてみたい私ほどにヒマなわけではない。
今朝の朝日に大江健三郎が例によってわかったようなわからないような話を書いている。
伊東静雄の「鶯」という詩の中の
(私の魂)といふことは言へない
という詩句と
しかも(私の魂)は記憶する
という二つの詩句について、女の国語教師からあなたの読み方を話してくれ、と言われて、大江は
《自分の魂というようなことを考えるとアヤフヤだが、苦しい経験をして思い返すと、それによって(私の魂)が記憶していることがあり、力になっている。》
と書いている。
これが「問い」への「答え」だろうか。
彼は何も読んでいない。
あるいは何も考えていない。
私は何も「正解を」などというバカげたことを言っているのではない。
(私の魂)といふことは言へない
のに
しかも(私の魂)は記憶する
という(私の魂)とは何か、についてちゃんと考えてみてはどうかと言いたいのだ。
誠実とは問いを問いとして受け止めることであって出来合いの答えを答えることにはない。
「わからない」と言う方がずっといい。
引用は、詩集『わがひとに与ふる哀歌』の中で「鶯」の直前に置かれた詩。
この詩のあとに「鶯」という詩があることの意味も考えてみるといいのに、と私は思うのだが。