バック
一丁目の子供
駈け駈け 帰れ
二丁目の子供
泣き泣き 逃げた
四丁目の犬は
足長犬だ
三丁目の角に
こっち向いていたぞ。
― 野口雨情 『四丁目の犬』 ―
昔、野良犬、というのがいた。
今はそんなのはいないし、町で見かける犬はみんな主人に連れられて散歩をしている。
けれど、昔はノラじゃなくってどこかで飼われている犬だって、鎖なんかしないで勝手に町内をうろうろしていた。
スピッツみたいに吠えてばかりいる犬はそんな自由はなかったけど、昼間、犬たちはだいたい自分勝手に電信柱に小便を引っかけていたものだった。
犬殺し、というのもいた。
輪にした針金で野良犬をつかまえる人をそう呼んでいた。
子供心におそろしかった。
野良犬と飼い犬の違いは首輪の有無で判断された。
ぼくの町内にバックという名前の犬がいた。
シェパードか何かの雑種の大きな犬で、ずいぶん年をとっておとなしい犬だったが、なんとなく町内のボスみたいな顔をして、もちろん鎖なんか付けずにぼくらが遊んでいる横に寝そべっていたりした。
今日みたいな暑い日の朝は、開けっぱなしのぼくの家の玄関の土間にお行儀よくお座りして食べ物をくれるのを待ってたりした。
いい犬だった。
だから、もちろんぼくはバックが好きだったが、他の町内の犬は怖かった。
道で向うに知らない犬がいたら遠回りをして帰った。
野口雨情の「四丁目の犬」という童謡は、そんなふうに犬が町を勝手に歩いていた時代の歌だね。
歌が、一丁目、二丁目、と来て、四丁目に飛び、それから三丁目に戻るところがとてもいい。
あの四丁目の足長犬はけっして一丁目、二丁目にはやって来ないんだ。
縄張りがあるんだよ。
そして、この縄張り意識はもちろん子どもにもあるんだよね。
だから、四丁目の犬は三丁目の角からこっちを見てるんだ。
きっと、四丁目の子供もね。
でも、その犬の目はきっとさみしい目だね。
その子の目もさみしそうな目だね。
何か知らないけど、さみしい目だ。
この歌の終りの
三丁目の角に
こっち向いていたぞ。
というところを聞くと、相手がそんな目をしてこっちを見ていたのに、自分がそっちに行かなかったことへの、あるいは相手をこっちに呼んであげなかったことへの後ろめたさみたいなものが、生きていることのさみしさみたいに残る。
そんな歌だ。
ところで、中学生になってジャック・ロンドンの『荒野の呼び声』を読んだとき、その過酷な物語のあの凛々しい主人公の犬(というか狼との合いの子)の名前が
バック
だったときはなんだかとてもうれしかった。
もう、町内のバックは遠の昔に死んでしまっていたんだけど。