仮面
われわれが表向き装っているものこそ、われわれの実体にほかならない。だから、われわれはなにのふりをするか、あらかじめ慎重に考えなくてはならない。
― カート・ヴォネガット・ジュニア 『母なる夜』 (飛田茂雄 訳)
中学3年生の国語の教科書に『素顔同盟』というとんでもなくひどい小説が載っている。
みんなが朝になると仮面をかぶらなければならない社会に生きている「ぼく」が、
「しかし、みんなの仮面の下に隠しているのが本当のぼくたちの姿じゃないのかな。」
と感じて、仮面を捨てて素顔で生きているという「素顔同盟」という川の向こう側の一団に入ろうとする、というような話だ。
こんな馬鹿げたものが10年以上教科書に載っているのは、例の「自分探し」などというアホなことがまことしやかに称揚された時代の名残なんだろうが、子どもたちの多くはこの話に共感するらしい。
思春期になって自我が目覚める時だもの、それは当り前のことかもしれない。
今付けている〈仮面〉を外しもっと「自分らしく」生きたい、と彼らは望む。
そんな子供たちがこの小説に対して抱く肯定的な感想を聞くだけ聞いて、そのあと、
では
と、《素顔》と《仮面》の意味を子どもたちに考えさせ、「自分」というものが本当はどんなものかをとことん考えさせる授業をやったら、さぞおもしろかろうと思うのだが、国語教師の誰もそんなことはやらないらしい。
そもそも〈仮面〉を外せば「本当の自分」の姿に成れるなどと思っている者は、内に向かって「自分」というものを徹底的に点検したことのない者たちだろう。
「自分」から自分固有、自分由来ではないものをはいでいけば、それはタマネギの皮を次々にむいていくように結局は何一つ残らないものなのだということを身に沁みて感じたことのない者たちなのだ。
そもそも、「自分とは何か」を考える道具である言葉すら私たちは周囲の人たちからもらっている。
その言葉をも自分のものではないと自分から排除すれば、自分が自分である、と考えることすらできなくなる。
そのことに気づいたとき、それは本当のタマネギの皮むき作業同様涙を伴う行為になる。
《素顔》を求めて〈仮面〉を外していけば、ごっそり皮膚ごとむしり取られてどこにも《素顔》は残らないことになる。
話は逆なのだ。
人に本当の〈素顔〉などはないのだ。
人はどのような〈仮面〉でも身につけることができる。
その中でどの〈仮面〉を選ぶかがその人をその人にするのだ。
仮に、何かと言えばすぐに憤激する人間(私です)がいるとすれば、その人はそうである〈仮面〉を選んで「よし」としているということなのだ。
苛立ちを抑えてやさしく笑顔で人に接することができる人は、イラダチではなくエガオの〈仮面〉を選んでいるのだ。
そのとき、その人は「やさしい人」になっている。
いつだって、その人の実体というものは、その内面にあるのではなく表にあらわされた〈仮面〉にあるのだ。
そして、大事なことだが〈仮面〉が変わればその内面もそれに随って変わってゆくのだ。
明るい声で話す人はその内面は明るくなるだろうし、暗く話す人は暗くなるだろう。
松本という復興大臣が何やら馬鹿げたことを言ったと朝刊に書いてあると思っていたら夕刊ではもう辞任していた。
ニュースをつけたら記者会見をしていた。
彼の言っていることは、要するに
一見俺ってそんな風に見えてるけど、本当は違うんだぜ
ということだった。
一国の大臣ともあろうものが、アホウ、である。
彼もまた、川向うの「素顔同盟」の一員になりたがっているらしい。