凱風舎
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胸の上の《哲学》

 

 

     一生の楽しきころのソーダ水

                        富安風生

 

 高校生は期末試験である。
 勉強しに来てるのだが、女の子は二人揃えば何かとおしゃべりをして試験勉強すら楽しそうである。
 横にいるこっちまでなんとなくニコニコしてくる。

 「せんせ。」
 呼ぶので振り向くと
 「これどういう意味?」
 一年生の子が自分のTシャツの胸に書いてある字を指さす。
 見れば

    I  think
      therefore
    I am.
      Descartes

 笑ってしまった。
 「はーん。デカルトやなあ。」
 「デカルト?」
 「このセリフを言うたおじさんの名前や。
    《我思う、ゆえに我あり》
  と書いてある。」
 「なに、それ?」
 「なにそれって、
  《私は今考えてるぞ。・・・ってことは、私はまちがいなく存在しとるちうことやないか!》
  ってことや。」
 「ふーん。」
 
 そう言った彼女は、わかったのか、わからなかったのか。
 けれど、デカルトが、たぶんは生涯かけて考えたのであろうことの結論が、一枚150円(だったと、その子はイバッテいた)の淡いピンクのTシャツの上にプリントされ、今、七月の女子高生の胸の上に軽々と乗っているのを見るのはわるいことではない。
 やっぱり笑ってしまう。

 たぶん、彼女らは、今(そして、これからも)

    I chatter
     therefore
    I am.
     (私はおしゃべりする、ゆえに私はいる)

であろうし、その胸の奥底では、

   You are
      therefore
   I am
      (あなたがいる、だから私がいるんだわ)
 
と、ささやく相手が見つかる日がいつか来ることを当り前のようにずっと信じている。
 彼女たちは男たちとちがって、「存在」なんて「関係」の中にしかあり得ないことを生まれたときから知っているのだもの。
 その胸に

    I think
       therefore
    I am.

 ところで、引用の俳句でいう
   一生の楽しきころ
というのは、きっと女の子にしかないよな。
 それが男の偏見だと言われようと、こんないいものは、絶対、女の子にしかない。
 ソーダ水の泡がはじけるようにその会話もきっとはずんでいる。
 一方男の子のそのころを名付けるとすれば、さしずめ
   人生の汗くさきころ
であろうか。
 あな、むくつけ。