赤ん坊
大人でさえ、はじめての空間に身を置いたときには、周囲のモノの存在感や空気の濃さ薄さに慣れるまで時間がかかる。まして赤ん坊となれば、ちがう星にやってきたような気分になるのではないだろうか。
― 堀江敏幸 『なずな』 ―
《おたより欄》にたぶん載るはずの《金沢の四翁》の中でもっとも若々しく見える邑井氏は、実際一番年若でもあるのだが、われわれの中で唯一の「おじいちゃん」である。
この春、めでたく孫娘が生まれたのである。
だいたい、
孫ができるとお祖父さんというのは孫の話ばかりする
などと世間では思われているかもしれないが、それはウソだし、この「おじいちゃん」も全然そんな話をしない。
孫俳句なんて恥ずかしいものも作らない。
一方、友人たちの方も、邑井氏の孫が男だったのか女だったのかを私以外だれも聞きもしなかったというのだから、男というものは仕方のないものである。
でも、実際目にしてるわけじゃないんだから何とも言えないじゃないか
と言われればその通りなのだがね。
しかしまあ、もうちょっと愛想があってもいいじゃないか、とは思うが、男なんて所詮そんなものなのである。
そもそも、男は赤ん坊に興味がない。
でも、赤ん坊はスゴイらしい。
「らしい」というのは、私にこれまで一度も実際に《継続的に赤ん坊と過ごす時間》というものがなかったので赤ん坊の実態というものを知らないからだが、どれほどスゴイものかは堀江敏幸の『なずな』という小説を読んでいればわかる。
(「なずな」というのは赤ちゃんの名前です。)
自分では何もできない赤ん坊が、生まれた途端、彼もしくは彼女を取り巻く世界の中心にドーンとすわって周りの大人たちを動かしながら、ひたすらミルクを飲み排便をし、見る見る大きくなっていく様子を読んでいると、世界というものほ、常にこういう形でいつも新しくなってきたのだなあと思われてくる。
何とて大きな事件が起きるわけではないのに、なんとなく続きが読みたくなる。
つまり、赤ん坊そのものが何にもましての事件であるんだとわかってくる、そして、読んでいると元気になる、そんな小説。
赤ん坊がいると、大人がそれに視線を合わせることによって、大人にとっても、世界というものが実はその毎日毎日が初めてのことに満ちた新しいものであることがあらためてわかってくるものなのかもしれません。
というわけで、今日も暑かったけれど、なかなかワルクナイ一日でした。