自戒
師いはく、「なんぢたゞ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず」と。
僧いはく、「いかならんかこれ無処不周底の道理」。
ときに、師、あふぎをつかふのみなり。
僧、礼拝す。
― 道元 『正法眼蔵』 [現成公案・第一] (水野弥穂子 校注) ―
今日は風の日だった。
開け放ったドアから部屋を通り抜けて気持ちよい風が窓へと吹きぬけていく。
今日も気温は30度を超えたらしいが、ちっとも暑くない。
というわけで、風のすてきだった今日の引用は、身の程知らずにも道元さんの『正法眼蔵』に出てくる風の話です。
《あるとき、宝徹禅師という和尚さんが、扇を使っていたら、そこに修行僧がやって来て
「風というものは《いつでもあって、どこにだって吹かない所はないものだ》と言われているのに、なんで和尚は扇を使うんですか」
と詰問したというんです。
そしたら、この和尚さんは(ここから引用部分)
「お前さんは、《風はいつでもどこにでもある》ということだけ知っているらしいが、まだ《風はどこにだって吹かないところはない》ということの本当の意味を知らんのじゃな」
と、言うんですな。
何言ってるんだい、と、僧がすかさず尋ねます。
「じゃあ、何なんですか!!
《風がどこにだって吹かないことはない》という本当の意味は!」
それに対して、和尚はそれには何も答えずに、澄ました顔をして、ただパタパタと扇を使ってみせるだけ。
すると、尋ねた方の僧はそれを見て、はっと悟って
「お教え、ありがとうございました。」
と深々と頭を下げた。》
というお話です。
なんだか、おもしろいけど、よくわからん話、かもしれません。
でもね、このあと、道元さんはこの話についてこう書いています。
《人は誰でもいつでも仏になれるというのも、そういうことなんだよ。》
(この辺からますますわからないかもしれませんが、しかもかなりいい加減な訳です。)
《「風はどこにでもあるんだから、扇を使っちゃダメだとか、扇を使わなくても風は吹く」、
なんて思ってる奴は、
「人は必ず仏に成れるんだから、何にもしなくて仏になれるんだ」
などと考えてる、大馬鹿野郎だ。》
と言うのです。
もちろん、私に仏法について何語ることもないのですが、世の中、いろんなところに、《風》はどこにでもあることは知っていながら「扇」を使わないバカがいっぱいいるので書いてみました。
「風が吹かないよー」
と言うだけで、自分の力を試してみようとしない輩のことです。
そのような人は私のすぐそばにもおり、そして私自身もおおいにその傾向があるのですが。
(明日、金沢に帰るので、通信はしばらく(たぶん月曜まで)お休みです。)