凱風舎
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棋譜

 

 同じ盤面をにらんでいても、そこに心の有様が異なる影を落とし、見るもの感じるものの違いが表れる。それは一人の棋士が時期を移し、一つの棋譜を繰り返し並べるときにも生じる現象である。一つの場面、一局の棋譜がいつまでたっても同じ眺めにしか見えないならば、それは自身の無成長を示す座標であって、棋士としての凡庸さを示すにすぎない。成長は緩やかな熟成を望む。そうしたなかで、飛躍は突然やってくる。

 

      ― 関浩 (毎日新聞 A級順位戦観戦記 佐藤康光―郷田真隆戦) ―

 

 挑戦者森内俊之九段の3連勝のあと、羽生善治名人が逆に3連勝した今年の将棋名人戦七番勝負は、今日その最終第七局が始まった。
 わずか100手前後の将棋を二日かけて戦うのだ。
 夕刊に1日目の午前中の棋譜が載っている。
 ははあ、と眺めるが、もちろん私には何もわからない。
 27手目まで進んで、新聞には第1局、第五局と同じ戦型だと書いてある。
 だが、それはどこかで変わる。
 対局する二人のうちのどちらかが変えるのだ。
 そうなって、その一局はこれまでにないただ一つの特別な一局になる。
 二人は9×9わずか81マスの中に40枚の駒を動かして一局の将棋を指す。
 二日にわたる戦いの中、対局者はお互いその間ほとんど膝を崩さない。
 不思議な世界だ。
 そして、すごい世界だ。
 ウィリアム・サローヤンの『人間喜劇』の中に、知恵遅れの12,3歳の少年が小学校に入る前の男の子を連れて市立図書館に行く場面がある。
 二人で図書館に並んだ本の背表紙を眺めながら、彼はその男の子にこんなふうに言う。
  「ぼくには読めないけど、この中には世界の秘密が全部書いてあるんだ。すごいなあ。」
 新聞で将棋欄を読んでいるとき、それと似た感じを私は持つ。
 私にはわからない。
 わからないが、すごい世界がこの30センチ四方の盤の中にあり、二人はその世界の秘密を解き明かそうとしているんだ、という気がしてくる。
 私が将棋欄を読むのは、この子が図書館に並んだ本の背表紙を眺める気持ちと変わらない。
 世界の秘密は自分にはわからないがそれを知っている人がいるということを知るのは心躍ることなのだ。

 引用したのは、何年か前の将棋欄の観戦記の一節。

 同じ盤面をにらんでいても、そこに心の有様が異なる影を落とし、見るもの感じるものの違いが表れる。それは一人の棋士が時期を移し、一つの棋譜を繰り返し並べるときにも生じる現象である。

とは、何も将棋に限ったことではあるまい。
 ある出来事や、あるいは本の一節を何度も反芻する中で、それは違った相貌を私たちに示してくれる。
 何が正解だったか、それはその時その時の結果論に過ぎなくて、本当の秘密はその奥にある。
 凡庸であるか否かは別にして、大切なことはその同じ《棋譜》を何度も何度も並べかえすことの中にあるような気がする。
 少なくともそれが世界を本当に知るための唯一の手段のような気がするのだ。
 それは、たぶんは「生活」からは遠いことなのだけれど。