マートーン!
「いや、もうまったく楽しい思いをさせていただきました。」
― オーステイン 『自負と偏見』 (中野好夫 訳) -
どこだって異空間に入るにはせまいゲートをくぐらねければならない。
薄暗い通路から階段を上がってスタンドに出れば、目の前には明るく広々としたグランド。
そこここで選手たちがキャッチボールをしている。
すでに心は世の憂さを忘れている。
今年の席はグランドに近い。
席についたとたん俊ちゃんとさっそくお姉さんにビールを注文していると
「ね。ね。あれマートンじゃない?」
隣のなるみが肩をたたいて目の前でキャッチボールしている選手を指さす。
私が目を向ける間もなく
「マートーン!!」
なるみは腕を振り回して大声を上げている。
「マートーン!マートーン!!」
もちろんおばさんの辞書に
はずかしい
の文字はない。
そのうえ、ここは球場である。
だれも世間の規範は一旦忘れていい場所である。
「ね。ね。見た?見たあ?
マートン、私に手を振ってくれたよ。
私に、だよお。
ね。ね。見たあ?」
私、見てません。
私、若いかわいいおねえさんからビールを受け取ってたから。
でも、なるみは試合が始まる前からもうすでに大興奮である。
言うまでもなく
思いこみ
こそが、おばさんの証しである。
(というか、おばさん、じゃなくても女の人というのは一般にそうなんですが。
これこそが、男が女に勝てぬゆえんです。)
俊ちゃんも私も毎度のことだから苦笑いするしかない。
試合が始まる。
まずそのマートンが打席に入る。
ボール2つの3球目、打球は快音を残して私たちの前をレフトスタンドに向かって飛んでいく。
なんと、先頭打者ホームラン!
周りのみんなが立ちあがって声を上げ手を叩いている。
その興奮の中、私の方を振り返って
「ね。これって、私のおかげじゃない?」
こう言ったなるみの目はコワイくらい本気(マジ)でした。
というわけで、その後も阪神の猛攻やまず、二回で6点、いつにない楽勝ムード。
途中席をたったなるみがなかなか帰って来ないと思ったら、手にはマートンの名前と背番号が入ったタオルが。
「えへへ。浮気しちゃった。」
この人、実は林威助(リン・ウェイツゥ)のファンなんですな。
さて、8回のロッテの攻撃が始まるとき、時ならぬざわめきとブーイングが周囲から。
何事ならんと思ったら、ピッチャーが小林宏に交代したんでした。
私、そんなにけなさなくてもいいのに、と思うんですが、この間何度も試合を壊してきた彼の「裏切り」にファンはなかなか厳しいもんなんですな。
でも、その小林も古巣マリンスタジアムのマウンドが合ったか、驚いたことに三者連続三振で九回の藤川につなぎ、めでたく勝利。
なるみ曰く。
「やっぱり、野球は勝たないと!」