台所
君子の禽獣(きんじゅう)に於(お)けるや、その生けるを見てはその死するを見るに忍びず。その声を聞きてはその肉を食(くろ)うに忍びず。是(こ)の以(ゆえ)に君子は庖厨(ほうちゅう)を遠ざくるなり。
(鳥でも獣でも、その生きてるのを見ていては、殺されるのはとても見てはおれないし、[ 殺されるときの哀しげな] 鳴き声を聞いては、とてもその肉を食べる気にはなれないものです。これが人間の心情です。だから、君子は調理場の近くを自分の居間とはしないのです。)
― 『孟子』 (小林勝人 訳注) ―
今日の引用で孟子が
君子は庖廚を遠ざく
というのは、そこに残酷を見るからであって、その言うところは大変正しい。
けれど、君子が自ら生き物を殺さず料理もせずにその肉を食べることができるのは、代わりにそれを行う者がいてくれるからである。
誰も生き物を殺してくれず、誰も料理してくれる者がいないところでこの原則に従えば、君子は飢えて死ぬほかはない。
ギリシアの哲学が古代都市国家に発生したことは周知の事実であるが、儒教思想もまた中国の古代城郭都市に生まれたものである。
都市とは消費者の集住する場所である。
都市とは端的に言えば生産から切り離された場所であり、古代ギリシアの都市民の生活が奴隷による生産を支えに展開したごとく、古代中国における都市も、その城郭の外で生産活動を行う農民を支配する者の住処であった。
いまだかつて、生産者を持たない都市は存在しても消費者を持たない都市は存在したことがない。
ところで古代における主産業とは農牧漁業である。
第一次産業における生産とは他の生き物である動植物を殺すことである。
生かし育てたものを最終的に殺すことである。
あるいは自然界にいる獣や魚介を殺すことである。
それなしに人間は生存できないからだ。
都市が消費の場であるとは、食がもたらされるそのサイクルが見えにくくなるということである。
そこに住む者は食材を消費しながらそれをもたらしてくれる生き物を殺す者を忌避する。
都市から死は遠ざけられる。
インドでお釈迦さまが「生老病死」の四苦を知るのは都市の城門を出た時だった。
さほどに都市から自然は遠ざけられている。
自然保護を唱える人々は間違いなく都市の住民である。
彼らの語る自然は頭の中で理解された「自然」であって生身の自然ではない。
趣味の「自然」であって、生活の自然ではない。
彼らはいわば「君子」である。
彼らが「君子]として理想を語り行動するとき、牛を殺し鳥をつぶさねば肉が口に入らないことを忘れる。
昨日の反捕鯨団体の人々はアイヌの人々が熊を殺したあとに行った「熊祭り」の敬虔を理解しない。
どちらが命を大事にすることかを理解しない。
あるいは次に掲げる石垣りんの詩の心も理解しないだろう。
日々台所に立つ女たちがふと持ってしまう、命が命を食べて命であることをへの淡いかなしみを知らないだろう。
シジミ
夜中に目をさました。
ゆうべ買ったシジミたちが
台所のすみで
口をあけて生きていた。
「夜が明けたら
ドレモコレモ
ミンナクツテヤル」
鬼ババの笑いを
私は笑った。
それから先は
うつすら口をあけて
寝るよりほかに私の夜はなかつた。
ちなみにあの反捕鯨団体「シーシェパード」の会員の大半の国籍がアメリカ、オーストラリアという牛肉輸出国であることは覚えておいてもよいことである。
ほとんど原理主義テロリスト集団ともよぶべき彼らが、なぜ、かの国々で取り締まりの対象にならないのかがわかるような気がする。