知的怠惰
けだし、驚異することによって人間は、(中略)、智恵を愛求し[哲学し] 始めたのである。
― アリストテレス 『形而上学』 (出隆 訳)―
まだ小学生にもならない頃、夏の夕暮れ、サドルの前に子ども用の補助席を付けた自転車に乗せられて走っているとき、私は月がいつまでも自分たちのあとをついてくるのに気づきました。
「とうちゃん。お月さん、ずーっとついてくるよ。」
と言うと、父は自転車をこぎながら月を見上げて
「おー、ほんとやなあ。お月さんは、ひろしのこと大好きなんやなあ。」
と言いました。
それは、とてもよい答えでした。
私はそのとき自分がお月さまに好かれていることをとてもほこらしく思ったことを今でも覚えています。
むろん、近くにある物はどんどん後ろに遠ざかるのに、遠くにある物はいつまでたっても見ている者との角度を変えない現象は、なにも私だけにおきるのではなく、誰にでも生じることであることを今の私は知っています。
けれどもあのときの父の答えはとてもよい答えでした。
おかげで私はあのときの父と私を微笑をもって思い出すことができます。
ところで、金子みすゞが昨日の「詩」で「ふしぎ」と言っていた、雲が黒く、雨が「銀」にひかって見えるのは、光の屈折や反射のせいです。
晴れた日の空が青く見えるのも、浜に寄せ来る波がしらが白く見えるのもやはり光が持つ性質のためです。
蚕が緑の葉っぱを食べても白いのは生物として同化を行っているのですから当然のことです。
それは人が魚や牛を食べたからといってウロコやツノが生じないのと同断です。
あの「詩」とやらを書いた金子みすゞが、これらのことを本当に「ふしぎ」に思っているなら、それを尋ねれば、すくなくとも彼女が中学生以上なら先生がそのゆえんを教えてくれたはずです。
高校時代、物理で赤点以外を取ったことがない私だって光の屈折や波長の長さから虹が七色に分かれる理由を子どもたちに説明できます。
もちろん彼女のファンの中には
「彼女が言っているのはそんな「科学的」説明じゃなくてもっと深い「ふしぎ」のことよ。」
などと反論する人がいるのかもしれません。
けれど、中学生にすら説明すればわかることを、ことさらに「ふしぎ」と言ってみせるのは、彼女がほんとうにそのことを不思議とは思っていない証拠だと私には思われるのです。
すくなくとも、本当には驚いていないのではないか、と思うのです。
不思議を「ふしぎ」のままに放置し、なおかつ、そんな低級な「ふしぎ」をふしぎがることをよしとするのを知的怠惰と言います。
不思議は必ず説明を欲っします。
なあるほどお!
と思わず膝を打つことを求めます。
小学校入学以前の私は父の説明に心から満足しました。
年相応の理解というものがあるのです。
けれど、いつまでたってもそんな説明を本気にしていればそれはアホウでしょう。
ある事柄が、自分やそのものだけに特異な現象ではないことを知っていく中で、人の知性は磨かれていきます。
普遍があることを知ってはじめて、そこに特殊があることに人は驚くことができるのです。
不思議とはそういうことのはずです。
花がみな花にしか見えない者に、それぞれの花の精妙に驚くことはできないのです。
「無垢」や「純真」をもって自らを正当化する者は自らを卑しめる者です。
英語で「無垢」を表す《inocent》という語は、「無知」をも表します。
自分の無知を「ふしぎ」としてあたかも己が無垢であるかのようにそこにとどまる者は自らの知的怠惰に居直る者です。
そのような自らの知的怠惰に居直る者の「詩」を中学校の教科書の冒頭に置く教科書編集者の見識を私は情けないと思います。