凱風舎
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雉子(きぎす)のあるか ひたなきに鳴(なく)を聞けば
友ありき河をへだててて住みにき

 

      ― 与謝蕪村 「北壽老仙をいたむ」 (尾形仂 校注) ―

 

 無造作
といふもおろか、ですな。
 勝田氏の庭の「雉」の卵。
 ごろり。
 「累卵の危うき」という言葉は知っているが、これは一個で十分あやふい。
 でも、以前勝田氏の畑で見つけたといって送られてきた写真の雉の卵とは色も数も違うような・・・。
 それに巣らしきものもない。
 イエスさんは言うとりますぜ。
  「狐は穴あり、鳥には塒(ねぐら)あり、されど人の子には枕するところなし。」
 これでは鳥ではなく、「人の子」です。

 とはいえ、雉で思い出したのは蕪村の 「北壽老仙をいたむ」。
 以下全文。

 

    北壽老仙をいたむ

 

君あしたに去ぬ ゆふべのこころ千々に
何ぞはるかなる

君をおもふて岡のべに行(ゆき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき

蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲きたる
見る人ぞなき

雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞けば
友ありき河をへだててて住(すみ)にき

へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹風(にしふくかぜ)の
はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき

友ありき河をへだてて住(すみ)にきけふは
ほろろともなかぬ

君あしたに去ぬゆふべのこころ千々に
何ぞはるかなる

我庵のあみだ仏ともしびもものせず
花もまいらせずすごすごと彳(たたず)める今宵は
ことにたうとき 

 

拙訳を示せばこんなかんじでしょうか。

(あなたは明け方なくなられた。夕暮れ、私の心は千々に思い乱れている。
 あなたはなんでそんなに遠くにいってしまわれたのか。

 あなたのことを思って岡のあたりをあゆむ。
 この岡をあゆむことがなぜこんなにもかなしいのだろう。

 そこにはタンポポは黄色にそしてナズナは白くさいている。
 でも、それをともにながめ語り合ったあなたはいない。

 雉がいるのか、かなしい声でひたすらに鳴いて鳴いて友を呼んでいるのを聞こえる。
 そうだ、私にも友がいたのだ。この河をへだてて住んでいたのだ。

 あなたを焼いた時のような煙がぱっと散るのをみれば、西風が
 はげしいのだ。その煙は、低い笹原やすげ原に
 とどまることもできずにはかなく空に消えてゆく。

 友がいたのだ。河をへだてて住んでいたのだ。それなのに今日は
 あの日の雉もほろろとも鳴かない。

 あなたはあの日の朝亡くなられた。それからわたしはずっと夕暮れになると心が千々に砕ける。
 どうしてあなたはそんなにも遠くに行ってしまわれたのですか。

 自分のあばら家の阿弥陀仏にお灯明も上げず
 花もお供えしないで、ただただ、こうやってあなたのことを思ってひとりしょんぼりとたたずんでいることの方が今宵は
 なぜかかえって尊く思われるのです。)

 詩といっても、単純な行分けではなく、最終句が微妙に次の行にかかる具合や、リフレーンの微妙な変化もすばらしく、明治になる100年以上も前の江戸時代にこのような詩が作られていたことに驚きます。
 わたしの訳は例によってわたしのおしゃべり加減を反映してべたべたごたごたしてるけれど、本文の、ずっと静かに、けれども亡くなった友への思いが深く伝わってくる感じをもう一度味わってみてください。