Yesterday
逝いた私の時たちが
私の心を金(きん)にした 傷つかぬやう傷は早く復(なほ)るやうにと
― 立原道造 「夏の弔い」 -
私の友人の一人は、父親を亡くして三週間ほどたったあるとき、車を運転しながら何気なくかけたビートルズのCDから「イエスタデ―」が流れてきたとき、思いもかけず涙が次々とあふれてきた、と語ったことがあった。
私も母を亡くした年の冬、一人誰もいなくなった故郷の家に帰った日暮れ、犀川の岸を歩きながらふとその歌を口ずさんでみたら涙が止まらなくなった。
Yesterday All my troubles seemed so far away
Now it looks as though they’re here to stay
Oh! I believe in yeterday
Suddenly I’m not half the man I used to be
There’s a shadow hanging over me
Oh! yeterday came suddenly
Why she had to go I don’t know
She wouldn’t say
I said something wrong now I long for yesterday
もちろんこれは失恋の歌だ。
けれど、これは、けっして「昨日」愛する者をを失くした者の歌なのではない。
(そもそも「失恋」とは愛する者を失くした日をさすのではなく、愛する者を失くしてしまったことを日々確認する月日をさすのだ。)
愛する者をなくすことはつらい。
愛された記憶があるならなおさらに。
だから、人は無意識のうちに
傷つかぬやう傷は早く復(なほ)るやうにと
硬い殻を作って自分の心を守ろうとする。
それを忘れたふりをする。
そして、その人が傍らにいないことにすっかり慣れたのだと思い始めたころ、けれども、不意に、どこからか、何の前触れもなしに
Yesterday
という歌声が流れてくる。
そのとき、自分を愛してくれたその人がいることがあたり前のように思っていた「昨日」がどんなに悩みなき日々であったのかを人は不意に思い出すのだ。
Why she had to go I don’t know
(なぜ、あの人が私の前からいなくならなければならなかったのか!)
ためていたすべてがあふれてくる。
何を見ても何かを思い出す。
そしてそれらの日がどんなに
All my troubles seemed so far away
(悩みなんてどこにもなっかった)
日々だったかに本当に思いいたるのだ。
そうやって涙があふれるだけあふれたとき、人はもう二度とその人が戻って来ないことを本当に確認する。
それがたぶん喪失ということなのだ。