かさぶたの作りかた
わたしたちは不幸をことさらに掻き立てるために
自らの睡りをさまそうとした
風はわたしたちのおこなひを知ってゐるだらう
(中略)
〈風はどこからきたか?〉
何処からといふ不器用な問ひのなかには わたしたちの悔恨が跡をひいてゐた わたしたちはその問ひによって記憶のなかのすべてを目覚ましてきたのだから
〈風は過去のほうからきた〉
― 吉本隆明 「固有時との対話」 ―
あなたたちはそんなことはしないでしょうが、無精なわたしの台所には半分だけ残ったタマネギがラップもされずに放り出されていたりします。
どうせ、すぐに使うんだからいいや、と思ってそうするのですが、どうかするとそれは、一週間も十日もそのまま使われずにずっとテーブルの上にのっていたりするのです。
そんなかわいそうなタマネギの切断面は、やがて乾いてきます。
乾いた部分はその後ますます乾き、硬く収縮して、半分にされたタマネギはまるで元の球形に戻ろうとでもしているかのようです。
丸くなるのは、表面積を小さくしできるだけ内部の水分を失わないようにするためでしょう。
外側が乾ききって硬くなるのも、自らが表皮の代わりとなって内部のみずみずしさを守るためでしょう。
生きているものはどれも、そのやはらかな内部を守るために外界と触れる部分をことさらに硬くしなければなりません。
傷ついたところにかさぶたを作るのは何も動物だけに限ったことではありません。
生きているとはやはらかいということです。
そしてやはらかいということは傷つくということです。
私たちの心も生きているのでまたそのように傷つきます。
そして、傷ついた場所はかさぶたを作らない限りそれが治らないのは体と同じなのです。
私たちはかさぶたを自分自身で作ります。
「心のケア」などという気持ちの悪い言葉はいつから使われ始めたのだろう。
「いやし」などというものをいつから日本人は恥ずかしげもなく求めるようになったのだろう。
心がなぜ傷ついてはいけないのか、私にはわからない。
心に傷を持たない人はいまだかつて存在しなかったし、これからだっていないだろう。
他に「いやし」を求める者は本当は傷ついていない者だ。
自分の傷が「いやされる」に値するものだと思いあがった者に癒しは訪れないだろう。
他人の「心のケア」ができると思っている者は本当の心の傷というものを理解していない者だ。
誰にも癒されぬ傷を負うことを心の傷というのだ。
心の傷を「ケア」できると思いあがった者はその人の心のそばにいることはできないだろう。
傷はかさぶたを作る。
かさぶたは自らが作るものだ。人からもらうものではない。
かさぶたの下にまだ癒えぬ傷があっても血は流れずに済む。
しかし、血は流れなくても、傷は疼くだろう。
それが傷というものだ。
疼かぬ傷はかすり傷だ。
その人がその人であるのは、その人が負ってきたこれまでの傷によってそうであるだろう。
あるいはその傷へのかさぶたの作りかたによってそうなのだろう。
今回の震災でたくさんの傷を負った人たちがいる。
「心のケア」が大事だとニュースは言っている。
いらない、と私は思う。
要るかもしれないが要らないと私は思う。
戦争から66年、その戦争を経験した人たちから戦争の傷は消えているだろうか?
人は皆かさぶたの下に傷を抱えて生きる。
それが生きるということだ。
けっして、傷は他のものによって安易に「いやされ」てはならない。
癒されないと覚悟して生きるということがかさぶたをつくるということだ。
かさぶたさえ作れば、傷がないかのようにだってふるまえるのだもの。
そうやって、人は生きてきたのだ。