凱風舎
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かわねこ山

  

「あなた、ヒグラシの鳥って、見たことある?」
僕は驚いた。悦子は二十歳なのだ。問いかえすと、彼女は口もとにアイマイな笑いを浮かべている。そこで僕は説明した。
「ヒグラシっていうのはね、鳥じゃないんだ。ムシだよ。セミの一種だよ」
 悦子は僕の言葉に仰天した。彼女は眼を大きくみひらいて、――悦子の眼は美しかった――
「そうォ、あたし、これくらいの鳥かと思った」と手で、およそ黒部西瓜ほどの大きさを示した。

 

      ― 安岡章太郎 『ガラスの靴』 ―

 

「ねえ、カワネコってどんなネコなのかなあ?」
列車が駅を離れた時、狭い四人がけの席の僕の前に座っていた若い女が隣の連れの男に聞いた。
「カワネコ?」
「うん。だって、今の駅、《かわねこやま》って駅だったから。」
「ふーん。カワネコかあ。」
「私、ヤマネコっていうのは知ってるけど、カワネコってどんなのかなあと思って。」
「カワネコねえ・・・・。
 それってさあ、実は鳥じゃない?」
「鳥?」
「そう、鳥!
 だって、ウミネコっていう鳥がいるじゃない。
 それと似たのが川にもいるんだよ。だからカワネコ!」
「そっかあ!カワネコって鳥なんだぁ!!」 

 というわけで、その若い男は彼女の前で大いに面目をほどこしたのだが、前に座っていたぼくはほとんど吹き出しそうだった。
 だって、そこは
   かわねこ山
ではなく
   川根小山
という駅だったんだもの!
   静岡県榛原郡本川根町小山。

 でも、
   かわねこ山
って、なんだかかわいくていいなあって思った。
 静岡の山の中の温泉宿で働いていた頃の話だ。
 列車の窓から新緑が美しかった。
 今でも思い出すと、なんだかニコニコする。

 ところで、引用した安岡の小説は青春のモラトリアムを描いて、とてもよい小説なんだけれど、いまや安岡章太郎なんて文庫からも消えてしまったものな。
 これは、『ガラスの靴』という題名の小説。
 もちろん、それは、夢のような夜も時計が12時を指したら「現実」に戻らなければならないあのシンデレラの靴のことなのだけれど、そういうものが青年期というものだった時代はもう終わったのかしら。
 みんな、大学に入ったときから、もう「就活」なんてことを考えてて、モラトリアムもないのかしら。
 だから、もう安岡章太郎は読まれないのかしら。 

 今日の話のための引用は絶対これだろう、と思って、よいお天気だったから昼間この文を写しに図書館へ行ってきたんだけど、書いてみたら引用と話がちょっと似すぎていたみたいだなあ。
 こういうのを書くと、昔司氏からは
  付き過ぎ
っていわれたものでした。俳句の話だけど。