ヴァリエェション
五月の日 お前と一しよだった
― 立原道造 「 愛する リルケの主題によるヴァリエェション 」 ―
高校三年の五月、授業中、ポケットに入っていた文庫本のページを開いて
どや
と、隣に座っていた橋本忠明君に渡すと、読み終わった橋本君は
今日、これ、ちょっと貸してくれ
と言った。
渡したのは角川文庫の中村真一郎編 『立原道造詩集』。
開いてみせたのは、その最後の方に載っていた「リルケの主題によるヴァリエェション」と副題が付いた「愛する」。
五月の日 お前と一しよだった
そして二人して うつとりと
煙のやうに匂う花の焔の列を 通つて
行ったあの白いジャスミンの四阿(あづまや)
どうやら、「甘ったるく感傷的な」言葉がつづくこの詩は1970年の地方都市の女の子と無縁であった男子高校生に得も言われぬ感慨をもたらしたものらしい。
おぼえてゐるかしら――お前に僕は林檎を持って行ってあげた お前の髪の毛に手をいれしづかにやさしく撫でた
知ってゐるかしら――その頃は 僕はたのしかった お前はほんの子供だった
自分たちの現実にはけっしてありえないであろう状況が綴られるこの詩に完璧に魅入られてしまったらしい橋本君は、翌日本を返してくれたあと
テラニシ、これ。
と一枚の紙を私に渡したのだった。
そこには
「リルケの主題によるヴァリエェションによるヴァリエェション」
とでも呼ぶべき詩が長々と書かれていた。
残念ながら、たぶんは橋本君が一生に一度しか書かなかったであろう「詩」が書かれたその紙はどこかに行ってしまったのだが、もてぬ男のあらん限りの想像と夢想によってふくらまされたそれを読んだ私は、大いに感心して言ったものだった。
ハシモト、おめえ、すげえなあ!
たぶん、私もそんなのを書きたかったのだな。
ところで、お互い大学生になった二人が久し振りに会った翌年の夏休み、酒に酔った橋本君は私にこう言ったのだった。
「テラニシ。お前のせいでわしの高校時代は不幸やった!」
「なんでいや。」
「わしは、おまえと三年間一緒なクラスやったしなあ。しかも、おまえといつも一緒におったもん。おかげでわしは女にもてんかった!」
うーん。
たしかに彼の言に一理あるような。
そういえば、私くらい同級生の女子に「敬遠」された男子生徒はいなかったのかもしれない。
思えば私の周囲2メートル以内に入って来る子もいなかったような。
そのそばに三年間心ならずもいつもいてしまったハシモト君の「不幸」・・・・。
いずれにしても、ハシモト君には、高校時代
もし しづかに鐘のやうに澄んだお前の
笑ひ声ばかりが 僕にひびくならば
もし そのとき 子供らしい大きな驚きに
お前の眼が ぢつと熱つぽく 上げられるならば
なんてことは一度も起きなかったらしいのである。
ごめんね。ハシモト君。