「第九」のある世界
今夜のN響アワーはズ―ビン・メータ指揮の「第九」だった。
先週の日曜日に震災支援チャリティーコンサートとして上野で開かれたという演奏会の録画だった。
正直
「ふーん、第九かあ。」
と思いながら、あまり期待もせずに聞き始めたのだ。
けれど、その演奏はぼくが聴いた第九の中で一番すばらしいものだった。( 時間の都合で第1楽章と第4楽章が放送されただけなのだが。 )
どう言えばいいんだろう。
妙に聞こえるかもしれないが、一生懸命に弦を鳴らし、笛を吹き、大きく口を開けて歌う人たちを見ながら、ぼくは
「ああ、そうか!ぼくらは第九のある世界に生きてるんだ!」
と思っていたのだ。
そんな感動だった。
第九の前にバッハの組曲3番のアリアが演奏された。
なんという静謐!
なんという祈り!
しみじみと心に沁みるとてもよい演奏だった。
「そうだ、あのような惨禍のあと、ぼくらの心を慰めるのはバッハなのだ」
そう思いながら聴いていた。
もちろん、演奏が終わっても、会場にいる誰一人拍手なんてしやしない。
これは、拍手をする音楽じゃない。
聴いている者は皆心が内に向かう、そんな音楽。
静まり返った会場の中でやがて指揮者はそのまま「第九」のタクトを振り始める。
ほとんど聴きとれぬほどのピアニッシモ。
けれどそれはやがてすぐにフォルテッシモへと変わる。
ベートーベン!
そう、ベートーベンだった。
そこにあるのはバッハとは全く違う何かだ。
バッハの知らない何か。
どう言えばいいんだろう、それは人の力を信じている音楽だった。
そして、そのことを指揮者も、楽団員たちも、ソリストも合唱団も、皆信じて演奏している。それがわかる。
聴く者にもそれを信じさせる演奏。
そうか、ベートーベンの第九ってそんな音楽だったのか!
何十年も第九を聞いてきて、迂闊にもそれがぼくに初めてわかった演奏だった。
人の力を信じている音楽。
演奏が終わったとき、聴衆は皆立ちあがって拍手をしていた。
そうさせる音楽なのだ。
不屈であれ!
ベートーベンはそう言うのだ。
ベートーベン以降ぼくらは「第九のある世界」に生きている。
バッハの敬虔とベートーベンの不屈、そのそれぞれがちがう形でぼくらに力を与えてくれる。
音楽の持つ二つの力に感動した1時間だった。