幻影
林の中には、世にも不思議な公園があって、不気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を表情してゐた。
ー 中原中也 「ゆきてかへらぬ」 -
あたたかな午後だ。今日も公園にのぼる。
日当たりのいい草原には 若い母親たちのグループが幾組かシートを敷いて座っている。その周りを小さな子どもたちが駆けまわっている。
公園の真ん中にあるこんもりとした木立の向こう側にあるベンチに腰を下ろす。
はしゃぐ子どもたちの声もここでは遠い世界からのように聞こえるだけだ。
ポケットから煙草を出して火をつける。
寒かった昨日、あんなに風が強かったのに散らずにいた桜の花びらが、あたたかな今日はあるかなしかの風に落ちてくる。
それは、ぎっしりと咲いたあの花たちから、と言うより、むしろ枝々の間に見える青い空から降ってくるもののように見える。
そして、花びらは絶え間なく、かといって何急ぐでもなく、一片一片、ひらひらと、ひらひらと、落ちてくる。
運動とは時間がなければ生じないはずなのに、その花びらの落下運動は見ている者にかえって時間が止まっているかのような錯覚を起こさせる。
すると自分が、もう実は、遠い遠いどこか違う世界にいて、そこから此の世を見ているような気がしてくる。
もちろん、桜を見る者がみんなそんなことを思うわけじゃないだろうけれど、困ったことに、これは私がずっと昔から知っている世界。
だからと言って、引用した中也の詩句のように今も思うわけではない。
今の私には《女や子供、男達》の言葉が分らないわけではない。
けれど、それはやっぱり私には本当はガラスの向こう側にある世界の言葉なのだ。
僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒(そそ)ぎ、風は花々揺(ゆす)つてゐた。
この通信では中也なんて絶対引用しないようにしようと思っていたのに、ついついやってしまったのは、桜の花のせいだな。
それに今日『ペスト』の話は勝田氏が先にしてくれたしね。
今日の短歌
かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳(かげ)らひにけり 前 登志夫