未来と将来
「子供って、誰かに伝えたいと思って、木に登るわけじゃないんだよ。木の登ったらどんな景色が見えるのか、ただ、それが知りたくて登るだけなんだよ。でもさ、年取ってくると、木に登らなくなる。万が一、登ったとしても、それを誰かに伝えたいって気持ちが先に立つ。」
― 吉田修一 『静かな爆弾』 ―
テレビに子どもが映るとうれしくなる。
新聞に子どもの写真があるとうれしくなる。
震災からまる一カ月、いまだ復興の目途は立たず、原発事故は終息の気配もない。
そんな中、笑っている子どもの姿を目にするとうれしくなる。
友だちに会えたからといって抱きつき、空が晴れたからといって駆けまわっている。
やって来た野球選手に目を輝かせ、ランドセルをもらったといってよろこんでいる。
それを見て、ぼくたち大人は頬を緩ませる。
俊ちゃんに初めて子どもができたとき、俊ちゃんは自分の子どもの行動を見ながら、いつも
わかってないわ!
と言って笑っていた。
今も、小さなきこゆ君を見ながら
わかってないわ。
と言って笑っている。
ぼくも笑う。
子どもは「わかっていない」。
赤ちゃんも、幼稚園児も、小学生も中学生も「わかっていない」。
高校生もやっぱり「わかっていない」。
彼らにあるのは、要するに今だけだ。
そのことが、ぼくらをあきれさせる。
「わかってないわ、こいつら!」
ぼくらは笑う。
では、ぼくら大人は本当に「わかっている」のだろうか?
「わかっている」と思っている。
経験や過去に照らし、それがどんな《意味》を持っているのかをわかっている。
あるいは、それが将来持つであろう《意味》をわかっている。
けれど、そのときぼくらは、「目の前にあることが、現に今示している《意味》」 を忘れてしまっているのかもしれない。
そのとき、子どもたちがそれをぼくらに教えてくれる。
うれしいことはうれしい。
かなしいことはかなしい。
それで、いいじゃない?
子どもの中に「未来」はあるが「将来」はない。
子どもにとって、これから先の時間は、文字通り
未(いま)だ来たらざるもの
であって、
将(まさ)に来たらんとするもの
ではない。
子どもにおける出来事は大人のように因果法則に従わない。
すべてが唐突に起きる。
子どもは、その事柄が時間のなかでどんな《意味》をもっているのかわかっていない。
わからないから、今目の前にあることに素直に反応する。
一方、大人の頭に浮かぶこれから先の時間は「将来」であって「未来」ではない。
あるいは、「未来」を「将来」と呼び変えたとき、子どもは大人へと変わってゆく。
「未来」は輝いているが「将来」は少しくすむ。
「未だ来たらざること」がいつか「想定の範囲内」のことになってゆく。
あるいは想定できる範囲に自分の未来を閉じ込めようとする。
それに慣れると、大人は、すべて「想定内」のことしか起きないなどと考えるようになる。
そして、思い通りにいかない事態に直面したとき、ともすれば「将来」を暗く予想する。
ダメなんじゃないか、と絶望する。
年間三万人を超える自殺者たちは皆「将来」に絶望したのだ。
けれど、ぼくらの前にある《これから先の時間》というのは、そもそも「将来」なんかではなく、いつだって「未来」だったのではなかったのか。
イエスさんは
天国は子どもたちのためにある。
と言った。
道元さんは
前後截断。
と言うた。
過去にも将来にもとらわれることなく、今ここに在ることのよろこびやかなしみに素直になること
それこそが、しあわせということの本当の意味だと、イエスさんも道元さんも言っているのだ。
「将来」なんて思いわずらうな。
そう言うている。
それをできるのは子どもなのだ。
「わかっていない」者たちがどんなに私たちの心を慰めるか。
人が子どもたちや動物たちから受け取る慰めは、彼らが「将来」なんて何も考えず、いつでも「今」を生きているからに違いない。
私たちもまた、これから先の時間を「未だ来たらざるもの」として、何思いわずらうことなく生きていけたら・・・。
残念ながら、人間の「大人」はなかなかそうはできない。
けれど、そうあることのすばらしさやたのしさを子どもたちが教えてくれる。
だから、ぼくらは彼らを見て元気になるのだ。
人とは本来そうしたものだと、心のどこかが反応するからだ。
そのとき、ぼくらは彼らのためによい「未来」があってほしいと願い、彼らのために「将来」を期するのだと思う。