拙い返事
サルトルの経験談は、彼の「シチュアシオン」という批評集にある。シチュアシオンと言ふ言葉は、どうも日本語になりにくい言葉だが、「現に暮してゐるところ」とでも訳したらよいであらうか。(中略)。
批評家はすぐに医者になりたがるが、批評精神はむしろ患者の側に生きてゐるものだ。医者が患者に質問する。一体どこがどんな具合に痛いのか。大概の患者はどう返事しても、直ぐ何と拙い返事をしたものかと思ふだろう。それがシチュアシオンの感覚だと言っていい。私は患者として、いつも自分の拙い返答の方を信用することにしてゐる。
― 小林秀雄 『考えるヒント』 [読者] -
地震から4週間がたとうとしている。
最初の衝撃のあと、なおもこの間の私たちの心を重苦しくしているのは言うまでもなく福島の原子力発電所の事故である。
この間、原発事故に対する、国や、東京電力、原子力安全・保安院のありように関して様々な感想や意見が出ている。
ああすべきであった、こうすべきであると、それぞれの立場からいろいろな批評もある。
なるほどと思うこともあれば、それは違うだろうというのもある。
もちろん、私自身、ヒドイな、と思うところはある。
けれど、それはそれ、である。
原子力や放射能に関しては、むろん私は何もわからないから、専門家の意見を、そういうものかと聞くばかりである。
目に見えぬものであるから不安はあるが、身一つ、何の守るべきも持たないおっさんである。
その不安は自分の身より、むしろ、昔や今の生徒たちに限らず、私より若い人たちの身にかかわる。
かといって、何おこなうわけではない。
ただ、みんなに何もなければよいとぼんやり思っているだけである。
映像ですら、「かかることやある!」と思わざるを得ないあの巨大な津波を経験した人は、それを言葉では言い尽くせまい。
また、同じ波に襲われながらも、一人一人それぞれの人の思いは一つであるはずもない。
(私たちが首都圏で経験したあの地震ですら、同じ揺れながらそれぞれの場所で一人一人違う経験として私たちの中にあるのだもの。)
語るべき言葉の何が私にあろう。
また、あの原発の火災に立ち向かい高度の放射能の中放水し、外部電源を取り込む作業に従事し、今また高濃度の汚染水と格闘している人々の勇気あるいは心意気にも言うべき言葉を持たない。
けれど、言葉を持たないということは思いを持たないということではない。
思いはけっしてそのまま言葉になるものではない。
私は、事態に対して、すぐに判断を下し、処理し、行動しなければならない場所にいない。
テレビのコメンテーターのように無理にも言葉にして何かを言わねばならぬ場所にいるわけでもない。
居丈高に批難したり、ことさらに眉をひそめてみせる必要もない。
ならば、様々の思いを持ちながらもそれを表す言葉を持たぬ今の自分を大事にしようと思う。
言うべき言葉を持たぬまま事態の推移を息をひそめて見ている今の私を大事にしようと思う。
小林秀雄のいう「現に暮らしてゐるところ」とは、言葉にすれば拙くしかこたえられない今の場所のことだろう。
少なくとも「医者」にはなるまいと思う。
つたなくしか答えられない自分の思いを大事にしようと思う。
いつか思いは発酵するだろう。
たぶん、そこからしか私の「本物の言葉」は生まれないだろう。
今日の短歌
えにしなき墓地をよぎれば春のくさみどりは土にあらはれてをり
小池 光