凱風舎
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たとえばバッハ

 

ぼくは考えた。「これが『物』だ。こうしてきいているぼくらの方は、明日になれば、何をどう考えはじめるか、分かったものじゃない。だが、今こうして、ぼくらのあやふやな心をしっかりとにぎっているこいつは、何としっかり存在していることだろう。こいつは明日になっても、やはり同じ姿でいるのだ。」

 

       ー  吉田秀和 『主題と変奏』 -

 

 金曜日の午後2時過ぎ、NHKのFMをつけると、バッハの無伴奏チェロ組曲の一番が流れていた。
  いいなあ
と思いつつ、椅子に深々と腰をおろして聴いていると、やがてそれは終わった。
  ふー、
と深い息を吐いていると、今度は何の前置きもなくいきなりベートーベンの交響曲第7番がかかる。
  おっ!
 もちろん元気になる。
 なにしろ私はこの曲を聞くと、ベルを聞いたパブロフの犬がよだれを出すように、どんな時でも元気が出てしまうのだもの。顔がゆるんでいるのがわかる。そして、第四楽章では思わず私、手を振り上げて指揮者にまでなってしまう始末。いやはや年甲斐もない。
 そしてそれがが終わると、これもまた何の前置きなしに、朝もやの中からのような、かすかな音が聞こえてくる。
   ああ、「巨人」だ。
 マーラーの第一交響曲。
 その朝もやの森の中で眠っていた若者が目覚め立ち上がるようなその第一楽章からしみじみ聴く。
 そして最後は同じくマーラーの5番の交響曲の3楽章の心にしみるアダージョで2時間のその番組は終わった。
 いずれもいずれも、実によかった。ベートーベンの7番以外はほとんど目を瞑って聴いていた。

 最後に聞けば、これは「きままにクラシック」という番組だったらしい。
  おお、そうか。
 NHKのFMは週日の午後の2時からいつもクラシックを流しているので、家にいるときはたいてい聞いているのだが、金曜日だけはこういう名前の番組で、この番組、そこに出てくる二人のおしゃべりがうるさいので、いつも金曜日はつけたラジオをすぐに消してしまうのだった。それが、今日はこんなにもよい番組。人の声が一度も聞こえない音楽だけの時間。

 震災のあと十日ほど、NHKはFMでも音楽は流さなかった。被災者の名前や連絡先を伝えていたのだ。
 もちろん、それは公共放送として大事な役割かもしれない。しかし、しばらくすると 「ちがうだろう」 と思うようになった。
 というより、自分が音楽にとても飢えていることに気付いたのだ。
 ならば、CDをかければいいじゃないか、とはならない。
 曲を自分で選択するというのと、「気づいたら、そのときラジオからこんな曲が流れていた」というのは全然違うことなのだ。
 私が飢えていたのはどこかから流れてくるそんな音楽だった。
 民放では音楽も流しているようだった。それはとてもよいことだった。けれど、どこからもクラシックは流れない。それがさみしかった。
 NHKは特別番組の間にでも音楽を流すべきだった。それがどれほどの被災者の心をなぐさめたか知れやしないと思う。
 それは不謹慎でもなんでもない。それこそが被災者の心に寄り添うということだった気がする。
 すっかり変わってしまった世界に変わらずにあるものがあることはなんとよいことだろう。
 変えていいことと変えてはいけないことがあるような気がする。

 変わることと変わらないこと。
 ぼくは音楽のことなんてほとんど何もわからない。ただ聴いているだけ。音符が読めないのはいうまでもないが、その形式や理論もよく知らない。
 けれど、音楽がなぜぼくらを慰め勇気づけるかはわかるような気がする。
 それは、吉田秀和氏が言うように、音楽というものが、実はたしかな『物』だからだ。いつも変わらずにいるたしかな『物』。音楽は自分がどんな状況にあろうと必ずしっかりした姿でたちあがって来る。それがぼくらに力を与えるのだ。そう思う。
 けれどももう一つ、音楽の力については、引用した本の表題になっている《主題と変奏》ということにもその秘密はありはしないだろうか。
 もっとも、本当はこの言葉さえ、ぼくはその意味を正確には知らないのだから、相当乱暴な意見になりそうなんだが、たとえば、バッハの音楽がなぜぼくらの心を落ち着かせなぐさめるように響くのかと言えば、それがすべて《主題と変奏》からのみ成り立っているからではあるまいかとぼくは思うのだ。
 なぜって?
 だって、それこそがぼくらが生きていくということそのものだから。
 ぼくらの日常生活というのは、結局は一つの主題に沿って流れていく。けれどもそこにさまざまなバリアントがなければ、それはなんと退屈なことだろう。けれど、そのバリアントはあまりにおおきく主題から離れてはいけない。それが約束。その中でぼくらは生きているのだ。
 そして、たとえば、4月、新しい学校に入学するとか、あるいは子供が生まれるとかして生活の様子や基盤が大きくかわるということが起きるにしても、それはぼくらにとって、いわば楽章の交代なのだ。楽章はかわっても、それは予定の中にある。全体の調和は崩れない。そして、ぼくらはその楽章の中でまたそれにふさわしいさまざまな変奏を奏でるのだ。
 すくなくとも、ぼくたちにとって真に「善きもの」とは、わずかな変化を含みながらも何度もくりかえすものであるということは、たとえばバッハを聞いていればわかる。すべて、音楽とはそういうものだ。

 けれど、今回の震災とそれに続く原発事故はそんな私たちの「音楽」を止めてしまった。これはけっして「楽章」の交代ではない。楽曲そのものが不意に途絶えさせられたのだ。ただただ続く音楽のない世界。
 けれどもぼくらはそこにとどまり続けるわけにはいかない。ぼくらは、ぼくらが奏でる音楽そのものを見出だし、たとえピアニッシモからでもそれを鍵盤にさぐり打たねばならない。歌い始めなければならない。 

 変わってしまったものがたくさんあるからこそ、変わらずにいるものが尊い。そう思う。
 そう思う中でこそぼくたち一人一人に新しい《主題》が見えてくるような気がする。