凱風舎
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当事者であること

   彼(ソクラテス)は店で売られているたくさんの品物に目をやって、しばしばこうつぶやいたものである。
   「ぼくにはなんと多くのものが無用なことか」と。

          ー デイオゲネス・ラエルティオス 『ギリシア哲学者列伝』 (加来彰俊訳) -

 

 毎年この時期になると勝田氏から、「ギリギリにならねば何もしない人のアホさ加減」についておもしろおかしい苦言を頂戴してゲラゲラ笑っているのですが、今年もまた私はその
   ギリギリにならねば何もしない人
になってしまっていました。
 実は私、今日やっと確定申告に行ったんですな。
 3月14日。提出期限の一日前です。いけませんねえ。
 勝田氏のたばこをグイとくわえての顰蹙、目に浮かびます。

 しかしまあ、このように為すべきことを一日延ばしにしている者に報いは歴然として現れますな。
 今日は朝から電車不通です。
 因果応報ですな。 私、朝から二駅離れたところにある税務署まで歩かねばなりませなんだ。
 とはいえ、陽射しは暖かく、道々の大半は畑といったところ。畑の脇の道端には春の小草たちが控え目に花をつけ、そして、ところどころに一群れの水仙が清らのうなじを垂れて咲いております。
 空にはヒバリ。
 見上げても見上げてもその在り処は見えない。
    ピピピピピピピ 
と声ばかり。
 というわけで、何やらピクニックにでも来たような。
 うれしくなって帰りは知らぬ道を歩いたら ケータイに表示された往復歩数は16,025歩。概算10.5キロ。
 さすがにふだん飲んでばかりいる年寄りにはこたえました。
 
 はてさて、近所のスーパーの棚は、お菓子も含めてほとんど空っぽ。
 うーん。不思議。
 何やらソ連崩壊期のロシアのお店を見るような。
 俊ちゃんの話によれば、ガソリンスタンドには延々1キロにも及ぶ列ができておったとか。
 はてさて。

 地震は僕たちの日常に破れ目を開けました。
 もちろん東北地方のようなとてつもない裂け目を前にしては人は声も失くしてしまうしかないのですが、今の首都圏くらいの破れ目は、実は、僕らの中にあった隠れていた力を呼び起こしてくれるものなのかもしれません。普段は電車で通っている道を人々に歩いて帰えらせたり、全然買う必要のない物までどんどんお母さんたちに買わせてしまうのも、実はそんな力のような気がします。
 便利な日常の中で封印されていた僕たちの中にある本当の生きていくための力が解放されていくようで、確定申告に歩いて行って、ヒバリの歌なんぞをよろこんでる能天気なおっさんとは違うかもしれませんが、たとえば歩いて自宅に帰った山田さんなんかも疲れているくせに、どこか生き生きした気持ちになっている自分に気付いたのではないでしょうか。

 などという、太平楽を言っていると、 
   職員室前の廊下に正座
させられそうですが、けれど、なんかそんな気がするのです。
 それは、地震の被害を受けなかった地域、たとえば金沢あたりで一方的に受け身に地震のニュースを見ている人たちより、同じニュースを見るにしても少し違った感覚のような気がするのです。
 もっとも、それに気付かず、嫌だいやだ、つらいツライ、と言っている人も多いのでしょうが。
 けれど、本当に自分の中に目を向けたとき、当事者であるというのは、実はただ見ている者よりかなり明るい何かがあることに気づくように思えます。
 それは、為すべきことを与えられている明るさとでも言いましょうか。
 もちろん、それは深甚なる被害を受けた方々にまで適用されるものではないでしょうが。