凱風舎
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奇怪なる学び

 

 これを不完全と呼ぶのは、それらの物は我々が完全と呼ぶ物と同じようには我々の精神を動かさないからである。

        ー スピノザ 『エチカ』 (畠中尚志訳) -

 

 杉本ブッシュ君によれば、この頃の大学では学生が自分の評価に納得がいかないとき、それについての説明を教官に求めることができるそうである。
 さて、ブッシュ君は造形大学というところでスピノザの哲学について講義をしているらしいのだが、ある学生について、50点の評価を下したところ、その学生から、
 「自分は講義すべてに出席しているし、提出したレポートも完全なはずなのにこの評価は納得いかない」
旨、大学に問い合わせがあったらしい。
 そこでブッシュ君が念のためそのレポートを読み返したところ、やっぱりひどい代物なので、50点は妥当な評価であると大学に返答したのだそうだ。
 その後、それがどうなったのかは知らないが、しかし、まあ、奇怪な、と私は思ってしまうのだ。

 そもそも、教育というものにおいて、評価の基準は学ぶ側にではなく、教える側にある、というのが基本だろう。たぶんこれが崩れたら教育そのものが成り立たない。
 物を教わるとはそういうことだ。
 自分の基準が絶対なら、人からものを教わる必要はないし、人の評価なんぞ気にもなるまい。
 もし、誰かが自分を評価しないなら、自分を評価しないその相手をバカにすれば済むだけの話だ。
 
 はてさて、まず、この学生は
  「すべて講義に出席している」
ことを評価すべきことのように思っているらしいが、
   そんなもん、ぜーんぜん評価しないもんね!
という価値基準があることを学べて大変よかったのである。
  いやいや、高校ではそうでしたし、普通はそうでしょう。
などというのは、阿呆である。
 大学は違うし、すくなくとも杉本先生は違う、というだけのことである。
 はたまた、この学生は
 「レポートもちゃんと書けた」
と自己評価を下しているらしいが、彼は杉本先生よりスピノザについてわかっているのであろうか。
 わかっいて、「ちゃんと書けた」と思うなら、自分を評価しない教官を
   ツカエナイ奴
と嗤ってやればいいのだけのことだし、またそんな教官のその評価は気にならないはずだ。
 一方、杉本先生よりスピノザについて語ること万分の一もないくせに、そう言っているなら、中学1年生程度の英語の力で自分の書いた英文を完璧とほざいているようなものではないか。
 いずれにしても、世の中に絶対中立の公平な基準があるなぞと思いこまされている奴が一体どんな《造形》をしようというのかわしにはわからん。

 スピノザのこと、もちろん私はブッシュ君の百分の一も理解していないのだが、もし私なら、その学生に、引用の部分がある「第四部」を読ませて、「完全」ということについてのスピノザの見解をレポートさせるがなあ。すれば、彼も自分のレポートがいかに「不完全」であるかについて思い当たることがあるかもしれない。