凱風舎
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スーパーで

    「エリック!なんて変ったんでしょう!」
    「でしょう?」 わたしは言った。 「見・分・け・も・つ・か・な・い。」

         - ユルスナール 『とどめの一撃』 -

 

 午後、近くのスーパーで買い物をしているとき、なんとなく視線を感じて顔を上げたら、少し離れたところに胸に赤ちゃんを抱いた若いお母さんがすこしほほえみながら私の方を見ている。目が合うと、その人はいっそうやさしげな顔になって、
 「せんせ。て・ら・に・し・せんせ」
と言う。ところが、困ったことにそう呼ばれた私にはそれがだれだか一向わからない。たぶん私はあいまいに笑いながら首でもかしげたのだろう、その人はまたやさしく笑いながら、
 「私、篠ヶ瀬です」と言う。
 「えー?あー!えー?」
 見れば、たしかに面影がある。背丈がこんなに高いのもたしかに篠ヶ瀬さんだ。
 「私、おかあさんになったんです。少し若いけど」
 たしかに若い。たしか、こないだ成人式だったはずだもの。その子がお母さんになっている。
 私、なんだかよくわからないが、胸が一杯になってきた。見れば、篠ヶ瀬さんの目もなんとなくうるんでいる。
 「この子、今五ヶ月なんです。」
と、私が赤ちゃんの顔を覗き込むと篠ヶ瀬さんが言う。赤ちゃんは、私がほっぺたをつつくと上機嫌に笑う。
 「すごく、愛想がいいんですよ、この子」
 「あなたと一緒じゃないか」
 「ふふふ、そうですかぁ」
 「そうだよぉ」
 私が、また、ほっぺたをつついてやると、赤ちゃんはほんとにうれしそうに手足をバタバタさせている。
 「すっごくかわいくて。私、自分の子供がこんなにかわいいものだなんてしらなかった」
 「よかったね」
 「うん。よかった」
 あと、何を話したろう。でも、あのスーパーのお魚売り場の横で5分ぐらいも立ち話をしている間、なぜなんだろう、やっぱり私の目はわけもなく半分泣きそうだったのだ。
 なぜだったんだろう?

 思えば彼女は高校3年生だった2年前まで、定期試験の前になると感心にもちゃんと必ず数学を教わりに来ていたのだが、そのたびに
 「おまえ、そんな濃い化粧してわしのとこに来るなよ。化粧臭くてかなわん!」
と私が言っても、
 「えーっ。先生みたいなおじさんには若い女の子の気持ちはわからないんですぅ」
などと答えていたのだった。そんな彼女がすっかり化粧っけもない落ち着いたお母さんになっていたことに、私は何か胸を衝かれるような思いを抱かされたのだろうか。それとも、ただただ、幸せそうな教え子の様子に孫を見た祖父さんみたいな気分になったんだろうか。それは、わからない。今日のことを今日書いているから、うまく考えがまとまらないのだ。
 けれど、わかることは、今日はとてもいい人に会えたということだ。とてもよいものに出会えたということだけだ。
 幸せでいてほしい。
 そう思った。
 祈り、というのではないけれど、何か遠いはるかな見えないものにそう願った。