凱風舎
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どんびあふれとぅびげってぃんおーるど

つい最近のことだが私は信じがたい感情のとらわれた。ヒットラーについての本をパラパラやっていたとき、何枚かの写真を見て、感動させられた。私に自分の少年時代を思いおこさせたのである。私が少年時代を過ごしたのは戦時中であった。
親戚の何人かはヒットラーの強制収容所で死んだ。でも、ヒットラーの写真が私の失われた時代、すなわち、二度ともどることのない時代を思い出させてくれたのと比べて、あの人たちの死は何だったのであろうか?

― 『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラー

週刊誌を読んだりする人は、おやじである。
週刊誌は—ちょうどこないだ僕は週刊文春を読んだのでわかるのだが、—
あれは、おっさんの読み物である。
おっさん以外には用のない書物である。

そこに書いてあるのは、政治の記事をまとった思い出話で、
おっさんが生きてきた道の確認のための話、つまりは懐古談。

あんなこともあったよね、とか何とか言って、おもしろがるための話である。

それが証拠に、小沢一郎の記事で一番面白いのは、
羽田孜がどうしたとか、宮沢喜一がどうしたとか、そこらへんの話なのだけれど、
そんなお話、ばすこ・だ・がまのお譲ちゃんには何の事だかわかるまい、そんなところだぜ。

わからなくて当然。羽田孜も宮沢喜一も、昔の人だからね。
教科書に載ってるかもしれないけれど、でもそんなの関係ないよね。
俺だって、佐藤栄作とか、田中角栄とかいわれてもピンとこないし・・・

でもね、おっさんにはわかります。
顔を知っています。
羽田孜の省エネスーツをおっさんは覚えています。
宮沢喜一が消費税を導入した時の、雰囲気を覚えています。

それは、懐かしいものです。
どんなものでも、懐かしくなるんだよ・・・。
つまり、偉そうな外見を装った、ただの昔話です。

ただの昔話を、さも、大事なことのように語っているのがおっさんです。
だから、わからないことを言っている!なんてって、怒っちゃいけません。
おっさんは懐かしんでいるだけです。
過ぎ去った日々を、過ぎ去った人たちのお話を聞きながら、懐かしんでいるだけです。

わからなくてもいいのです。
でも、怒っちゃだめです。

なかんじで、おやじと化しつつある自分を忸怩たる思いでかみしめている今日この頃です・・・
嗚呼