標準
子どものなかには多くの場合、ひとりで正しいことをしているものもだいぶありますが、たいていの子供はまず正しいことをすることを習わなければなりません。そのために一つの標準が必要です。すなわち、ああ、わたしのいまやったことはまちがっていた。罰せられるのが当然だ、というふうに感じなければなりません。
しかし、もしそのとき罰せられたり、しかられたりせず、横着なことをしたのにたいし、チョコレートをもらったりなんかしたら、子どもはおそらく、いつもうんと横着をしてやれ、そしたらチョコレートがもらえるぞと、ひそかにいうでしょう。
尊敬は必要です。同時に、子どもが、いや、われわれ人間というものが不完全であるあいだは、尊敬にあたいする人が必要です。
- エーリヒ・ケストナー 『点子ちゃんとアントン』 -
「いいですか、あなた、世の中《無縁社会》などといって、人間関係の希薄化を嘆いておるようですが、それは実はわれわれみんなが望んでそうなったものなんですよ。」
昨夜、勝田氏が電話でそう言うのである。
「きょうも私はお葬式に出かけてきました。
それはですね、私の、ですね、父親の、姉の、嫁ぎ先の、旦那さんの、お父さんのですね、その弟の、養子に行った先のお嫁さんが今年99歳でなくなられたからなんです。」
私、もちろん、げらげら笑っている。
「遠いでしょ?遠いんです。でもね、これが田舎の《有縁社会》です。その《有縁社会》がわずらわしいと言うて、みんな都会に出かけ、そして、《無縁社会》になったんです。ナニ嘆クコトアランヤ!ですよ」
そんな気炎を笑い続けながらしばらく聞いた後、二人して、エジプトのムバラクの顔は何やらミイラのごとくであるから、実はあの古代エジプト絵画というのは、たいした写実作品だったのではないか、とか、大相撲の八百長はいけないかもしらんが、あたかも、自分には一点の曇りもないかのごとき言辞を弄する徒ははいただけませんなあ、なんどをわあわあ笑いながら話していたとき、勝田氏が
「ところで、あなた、それはあなたにも当てはまることですよ、テラニシさん。」
と言うのである。
「何、何?」
「何、何って、あなた、あの《あほー巻き》ですよ。」
私、もう期待でク、ク、ク、と笑っている。
「あなた、よく、あんなことが書けますね。
あなた、自分がお酒を飲んでるさまを鏡に映して見たことがありますか?
恵方巻きにもまさる太々としたビール缶をですね、口からいっときも離すこともなく、何本も何本も、際限なく飲み続けるさま、ヒドイもんですよ。
あれじゃあ、鬼も近づかないだろうけど、福も来ませんね。
あれこそが正真正銘の《あほー巻き》ですよ!」
私、大笑いしました。
おっしゃるとおりです。私、己を忘れておりました。己を忘れて他をけなしておりました!
それにしても、持つべきものは、友であります。笑って苦言を言うてくれる友であります。
今日引用のケストナーがいうように、「人間が不完全であるあいだ、尊敬にあたいするひとが必要です。」
もちろん、《尊敬にあたいするひと》なんて口にしたら、勝田氏は
「あんた、気でもちごうたんか!ばかなことを!!」
と言うにきまっておりますし、そんなことは言いはしませんが、でも、自分の欠点をちゃんと指摘してくれる友人ほどいいものはありません。
うれしいことに、私にはそんな友人が少なくとも5人います。
おかげで、私のバカさ加減もこの程度ですんでおります。
よかった、よかった。