凱風舎
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うすいがらす

   白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう

                     ー 斎藤史 -

 今日は節分。
 明日は春が始まる日。
 午前中、南向きの窓辺で日向ぼっこをしている猫を見ていたら、斎藤史のこんな短歌思いだした。
  
  いい歌だね。
  いい歌だ。
  一読、心がやはらかにひらいてくるね。

 この「白い手紙」って何が書いてあったんだろうね。
 大好きなひとが
    明日、帰るね
って書いて寄こしたんだろうか。
 あるいは、あのすてきな 『Love Letter』 という映画みたいに、見知らぬひとからの

    拝啓
    藤井樹 様  
   
    お元気ですか?
    私は元気です。

とだけ書かれた手紙だったかな。
 歌には手紙の中身のことは何も書いていないからわからないね。
 でも、これは、何も短歌が三十一文字しかないから書けなかったというんじゃないんだ。そうではなくて、作者にとって大事だったのは、手紙の中味じゃなくて《手紙が届いたということそのもの》だったってことを示しているはずだよね。
 考えてもごらんなさい。中身が大事な手紙って、それはどこかからの請求書だったり、あるいはもうお付き合いは止めましょうという別れの手紙だったり、つまりはあんまりうれしくない手紙なのさ。本当にうれしい手紙って、実は
 あの人からお手紙が来た!
ってそのことだけで、ニコニコしてくる手紙のことでしょ?
 だから中身のことなんて書いてなくったって、それがとってもいい手紙だったってことがわかるよね。
 でも、もうちょっと深読みしてみると、ひょっとしたら、この「白い手紙」というのは、本当は、作者の心が、誰からともなく、何からともなく、不意に受け取った
  《何かが訪れ何かが始まる》
という「予感」そのものをさしているのかもしれないよ。
     「それ」が何かはわからない。 
     そして、「それ」がいつやってくるのかだってわからない。
     でも、きっと「それ」はやってくる・・・。
 冬の間ちぢこまりかじかんでいた心にそんな「予感」が不意にきざす季節のことを,ぼくたちは《春》って呼んできたのかもなしれない。

  そう、ぼくらも心のガラスを磨いておかなくてはね。
  きっとすてきなものがそのうちいつかやってくるよ。