根拠のない自信
ひともと銀杏(いてふ)葉は枯れて
庭を埋(うづ)めて散りしけば
冬の試験も近づきぬ
一句も解けずフランス語
若き二十(はたち)のことなれや
三年(みとせ)がほどはかよひしも
酒、歌、煙草、また女
ほかに学びしこともなし
ー 佐藤春夫 『酒、歌、煙草、また女 三田の学生時代を唄へる歌』 -
昨日の毎日新聞の夕刊の文化欄の【論の焦点】というところにだいたい次のようなことが書いてあった。
『中央公論』の立花隆の論によれば、日本の大学は、この間の《国際競争力》をつけなきゃという例の「大学改革」とやらで、どいつもこいつもまじめになって、学生は皆、講義に出席し、教員は雑務に追われているんだそうだ。で、そんなにがんばってるのに、東大も京大も〈世界大学ランキング〉とかいうものが年々落ちているらしい。
大学の世界ランキングってどう決めるものなのかわしは知らないし、東大・京大がどんなところかもしらないけど、まあ、それはそうなるだろうなと思う。
だいたい
「みんな、まじめに取り組めば、きっと成果が出るよ!」
なんて言うのは、クラス対抗の合唱コンクールの前の中学生みたいな言説で、そんなことを大人まで本気にして言い、なおかつ本気で実行してしまったというのはどうかしている。競う相手の数と競うべき領域が限定されている中学生の世界と、その数も領域も定かではない世界を相手にしようという大学の研究では、話が違うにきまっているのだ。そこで問われる独創性や自発性などというものは、他から課せられた課題をこなし続ける「真面目さ」とは相容れない事柄ではないか。(なんて、私が力みかえることなんてなにもないんですけどね)
一方新聞のその欄には『文芸春秋』の中国の大学事情のレポートの話ものっていて、それによれば、かの国の大学は受験戦争は猛烈でも入ってみれば、一流大学では出欠は問われず、試験前には教官が問題を教えてくれるんだとか。
なるほどね。
高度経済成長期の国の大学事情ってのは、そんなもんなんだなあ、って思った。
要は、力さえあれば、放っておいても、伸び者のは伸びるってものだ。伸びない奴だって、自分でものを考える。国に活力のあるとき、たぶん、大人たちは、それなりに基礎となる力を付けた若者たちは、ほったらかしにしても大丈夫だと思えるんだろうな。
まるで、わしらの大学時代みたいだ。
私のころ、出席を取らない科目あったのかどうか、どの講義にもあまり出なかったのでよくは覚えていないが、必ず出席を取ってた語学だって、代返が効いたものな。
もっとも、代返は効いても、[試験]の方は、私、引用の佐藤春夫の詩そのままに
一句も解けずフランス語
だったんですけどね。
そのうえ、大学に三年ほど通ったのも佐藤氏と同じなら、ヨワッタことにそこで学んだことまでもまた一緒でした。
佐藤氏、続けて曰く
我等を指してなげきたる
人を尻目に見おろして
新しき世の星なりと
おもひ傲(おご)れるわれなりき
まあ、こんな根拠のない自信、どこから湧いてくるのかわからないけど、佐藤氏のみならず、「自分が自分である!」ということ以外にどこにも根拠のない《おもひ傲れる》自信を持てる時期なんて若い時以外にありはしないのだもの。それが《正しい》大学生活かどうかはわからないけれど、でも、「それもOK」というのが大学というものじゃあるまいかねえ。真面目に、真面目になどと若者たちに押し付けるのは、要は大人たち自身の自信喪失と若者に対する信頼不足の裏返しだと思うがなあ。沈滞しはじめた国が衰退する国へと向かうその一歩というのは、「いい若いもん」への大人たちの過剰な口出しなのではあるまいか。
己をたかしとする若者の特権を、バカだねえなどとニヤニヤしながら眺めている大人がたくさんいる社会の方がずっとよいのにとわしは思うな。
ところで、俊ちゃん、ルビの振り方教えてくださいな!