宝
爾(なんじ)は玉を以て宝と為すも、我は子の玉を受けざるを以て宝と為す。
ー 『韓非子』 (金谷治訳注) -
昔、中国の戦国時代、宋という国に子罕(しかん)という大夫がいた。その人のところへある男が璞玉(はくぎょく)を献上した。子罕は受け取らなかった。なおも玉を受け取ることを勧めるその男に子罕は言う。
あなたはその玉を宝物だと思っているが、わたしはあなたの玉を受け取らないことを宝だと思っている。
これが、今日の引用の意味だが、
「僕らは努力、許せない」 怒る受験生
今朝の朝日新聞の社会面に、こんな見出し。例のケータイカンニング事件のことらしい。
うんざりしながら、記事をみれば
「僕らは1年間何もかも犠牲にして努力してきたのに、許せない」と大阪府の高校3年の男子生徒(18)は
取材に怒りをぶつけた。
と、ある。
取材に怒りをぶつけた
なんて情けない決まり文句を書いて恥じない記者もどうかと思うが、なんなんですかね、この生徒の言葉は!
恥ずかしくないんですかねえ。
でも、 ホントに、こんなこと言う奴、世の中にいるんですか?
いたとしたら、あんたはこの記事を書いた記者と同じ程度のバカですぜ。
私が記者だったら、その若者に
あなた、そんなことを口にしてると、だんだん人間がダメになっていきますよ。
と、言ってあげるのになあ。
まあ、この世の中、あたかも自分が「犠牲者」であるかのごとき立ち位置でものを言うのが流行ってますから、若い奴の中にもこんなこと言う奴がいるんでしょうが、ほんま、やめてもらいたい。
カンニングした奴はくだらないあほうに決まっているが、努力もしないで手に入れたものをよしとするようなそんな奴は軽蔑をもって遇してやるのが正しい対応というものです。でないと、実は自分も彼と同じ立ち位置にいることを、はしなくも露見させてしまいますぜ。
くだらない人間が、
「どうだ、得したぞ。いいだろう!」
と見せびらかし、差し出すものを、ふふ、と鼻のあたりで笑いながら
我は子の玉を受けざるを以て宝と為す
と軽く言える人を、昔は、学問をした人間、と呼んだみたいだよ。