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レイジィ大石君

偽りなき者

偽りなき者
トマス・ビンダーベア監督

恐い映画を観ました。
偽りなき者。トマス・ビンダーベア監督。マッツ・ミケルセン主演。
トマス・ビンダーベアという人はデンマークの人らしいです。

主人公のルーカスは、離婚やそれによる息子(マルクス)との別れに苦しみながらも、
幼少のころからの仲間たちと楽しくすごしている幼稚園教師です。

原題である「JAGTEN」というタイトルのバックから聞こえてくるのは、
「一番早く飛び込んだやつが、賞金をとるんだぜ!」
「イエー!そうだ!オレが行くぜ!!」
という声です。
真黒な背景の前にタイトルだけ浮かび上がるオープニングでそれを聞くと、
仲の良い中学生が戯れているのかと思います。
タイトルの表示が終わり、実際の映像が映ると、はしゃいでいるのは中学生ではなく、
中年のオッさんたちで11月の寒い季節に森の中の湖畔で半裸になって
「お前が先に飛び込めよ」
「いやだよ、寒いよ、お前からいけよ」
「なんでだよ、お前ビビってんのか?」
みたいな会話が続きます(最初に湖に飛び込むおっさんが全裸で、しかも無修正であるところに度肝を抜かれるのですが、それはまた別の話です)。

仲の良い、幼少からの知り合いの仲間たちの一員として、ルーカスはいます。
前半はそんなルーカスと仲間たちの牧歌的な日常が、ほとんどしつこいくらいに描かれます。

ある日、ルーカスがスーパーで買い物を済ませ家に帰ろうとした時、店の前に一人の少女を見つけます。
一緒に湖で遊んでいた仲間の一人であるテオの娘、ルーカスの勤める幼稚園の園児でもあるクララです。
「どうしたんだい?」
「道に迷ったの」
「線をたどらなかったのかい?」
「下ばかり見ていたから」
「家に帰る道はわかるかい?」
「わからないわ」
「送って行こうか」
「いいわ、じゃあ、私が下を見ているから、あなたが線をたどってね。」
「わかった。」
「ファニーも一緒なのね、じゃあ、ファニーが周りを見渡してね」(ファニーはルーカスが飼っている犬の名前)

また、ある朝、テオの家の前を通りかかると、家の前にクララが座っている。
家の中からはお父さんのテオとお母さんが言い争っている声が聞こえてくる。
「喧嘩かい?」
「うん」
「一緒に幼稚園にいこうか?」
「・・・うん」
ルーカスはテオに電話をし、クララとともに幼稚園に行く。

クララは優しいルーカス先生に淡い恋心をいだいていきます。

ある日、クララはビーズをつなぎ合わせて作ったハート形の贈り物をルーカス先生に送ります。
ルーカスは、クララにこう言います。
「これは男の子にあげなさい」
「・・・・・・」
だまって、ルーカスを見つめるクララ。
「これは私のじゃない」
「そうなのかい、でもここに君の名前が」
「誰かが、勝手にやったのよ」
「・・・そうか、それじゃあ、これはその誰かに返すか、他の男の子にあげなさい」

その日、園長先生は他の園児が親に引き取られた後の薄暗がりの中に一人たたずむクララを見つけます。

「もうすぐ、お母さんが迎えに来てくれるわよ」
「わたし、ルーカスが嫌い」
「あら、どうして?」
「だって、がさつでうるさくて、股に変なものがあるし」
「あら、男の子はみんなそうでしょ、あなたのお父さんだってお兄さんだって」
「でも、ルーカスのは違うの、ピンとそそり立っていて」
「・・・」
絶句する園長先生。
(そそり立つ男性器のイメージは、その前のシーンでクララの兄とその友達がクララに見せるポルノ画像からきていることは映画を見ている観客には示されています)

そこから先は、ルーカスの転落一直線です。
幼稚園児クララは性的虐待の対象になってしまったと疑われるがゆえ、彼女のためらいは、周囲の大人からして、被害を受けているがうえのためらいととらえられ、
クララが何もされていないと言えば言うほど、それを見る大人は、彼女がこんなに苦しんでいるのは、何か言えない事情があるに違いないと信じるようになるのです。

~~~ここから、本編の話を最後までします。この映画は、本編を見たほうが、わたしのだべりを聞くより100倍良いし、1000倍苦しいと思うので、
まだ観ていない人は、観てから読むよーに!(僕は、これから、観てきた人を相手にしゃべるように書きますよ)~~~

私は、この展開があまりにも苦しいので、思いました。
ここには、どんでん返しがあるんだよね?
でなければ、辛すぎるよ。
そう、たとえば、実は、ルーカスは本当の鬼畜野郎で、クララの言っていることは妄想でもなんでもなく、
ルーカスの正体は譫妄狂のクソ野郎であることが最後の最後に判明して終わる。
多分、ハリウッドだったらそうしていると思います。

そういう、クソ映画だったら、どんなに良かっただろう。
まだ救いがある。
この場合の救いは、ルーカスが悪い!ということに収斂されるカタルシスになります。
なんだかんだ言って、悪魔として存在するのはあいつだと、観ている側はそう思えば良いのです。

でも、そうではない。

そうでは、なかったですね。
どんでん返しなんて、ありませんでしたね。
裁判で無罪となり、釈放された後でも、周囲の人間からすると、彼は性犯罪者、それも幼児性犯罪者でしかなく、
無罪で釈放されたが故に、さらなる憎しみの対象、というか彼を攻撃することによって、気軽に己の善を確認することができる対象でしかなくなってしまうのです。

それは、その緊張感は最後の最後まで続くのです。
最後まで続くということは、これから先、映画が終わった後も続くのです。

最後のシーンで、ルーカスに銃を向けたのは、誰だったでしょうか。
答えは私の中では明らかです。
それよりも、ルーカスの最後の顔がすごかったですね。
「わかった・・・立ち向かおう・・・」

この映画を通じて、私は、この監督の現実に対する悪意しか感じなかったですが、それでも良いと思います。
そういう映画があってもいいでしょう。
緊張感あふれる、最後まで微動だにできないドラマ。
観る者のこころを傷つけるだけで回収しない展開。

これは、良い映画だったと思います。

P.S. ご無沙汰しました。