蜃気楼
三十キロ遠くに写り危うげに蜃気楼のごとき白き原発
ー 菰渕 昭 (『朝日歌壇』 4/18 永田和宏 選)-
先週から新聞の短歌欄は震災に関する歌がそのほとんどを占めるようになった。
読みながら、はっと思う。そうなのか、と思う。しみじみ心に沁みる。
そんな歌が40首並ぶ。
現代の日本で短歌を作る人がどれほどいるのか私は知らない。
けれど、日本中の新聞に短歌欄があり、年初には皇室主催の歌会始がある。
その人たちが、折に触れ心が動いたことを三十一文字の中に込める。
それを読む者の数は歌を詠む者の数の十倍ではきくまい。
皆、それを詩として読む。
なんという国だろうと思う。
この国には心動けばわずか一行で誰でもそれを詩にできる形式がある。
短歌、俳句、川柳。
アフガニスタンに内戦による国の荒廃や人々の死の不条理を庶民が綴る詩の伝統はあるのだろうか。
民衆デモが広がったエジプトやチュニジア、地震に襲われたハイチ、かつて大きな津波に襲われた南アジアの国々はどうなのだろう。
あるいはヨーロッパの国々に戦争の惨禍を無数の庶民が歌にする形式はあるのだろうか。
わからない。
けれど、日本にはそれがある。
何者でもない下々の者が歌を上手に詠んだために神の加護をたまわる説話が昔から語られ続けた国。
かつて誰もが辞世の歌を詠んだ国。
天皇陛下ですら同じ形式で歌を詠む国。
やさしいことが尊ばれる国。めめしくあることが許される国。
この国が戦争や災害の惨禍にあったとき、歌はおのずとそのことを歌う。
人々はそれぞれの目で見たものを、感じたものを言葉に整える。
地震にてとまりし電車十日経てまだとまりゐる菜の花の中 (ひたちなか市 藤原克彦)
ここに
国破れて山河あり 城春にして草木深し
という杜甫の詩を並べてみてもいい。
その中にあったのと同じものが「電車」「十日」「菜の花」という具体を得て、たしかな詩としてぼくらの心を打つ。
黄色い菜の花の中にとまっている電車、という童話の中のような明るい風景がかえってぼくらの「あはれ」を深くする。
冒頭に引用した、ヘリコプターから映される原発の姿を蜃気楼と歌う歌の中に、目には見えないけれどけっして蜃気楼ではない日本人の歌の力を見る。
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