辛夷の花
山なみ遠に春はきて
こぶしの花は天上に
雲はかなたにかへれども
かへるべしらに越ゆる路
― 三好達治 「山なみとほに」 -
昨日今日とあたたかだ。路のかたわらの桜はまだつぼみだが、そこここの庭に木蓮の花、咲いていた。
立ち止まって雲ひとつない空に咲くその白い花を見上げれば、その花の間の空は周りよりその青が濃く見える。
モクレンはコブシとは違うけれど似たような白い花。ふと、いい気持になって、三好達治の詩、口をついた。
けれど、
山なみのこんな遠くにまで春はやって来て
辛夷の花は真っ青な空を背景に白く咲いているよ
あの雲はむこうに帰ってゆくけれど
私は帰るところもないままにこの道を越えて行くのだなあ
というこの歌の意味が、今故郷を離れ各地の避難所にいる人たちにとって、達治の歌った意図とは全く違う形で切実に響くことに驚き、せつなくなった。
山道を行くバスの中で、あの人たちは白い清らの辛夷の花を目にしただろうか。
そう言えば、金沢の私の家の庭には、紫木蓮の木がある。そして毎年四月のはじめ、私は金沢にいる。
父の命日に当たる日があるからだ。母も亡くなって、誰も墓に行かないわけにはいくまいと思うのだが、今年は帰らないことにした。いつまた余震で家の中がバタバタになったり、町がどうにかなるかもしれないときに、ここにいないのはまずいだろうと思うのだ。それに、ヤギコの世話を頼んだ子がここに来ているときに何かあったら大変だもの。
とりあえず、仮に何かが起きたとき、子どもたちや卒業生を置いて自分だけ向うにいるというのはイヤなのだ。原発事故のこの重苦しさ、金沢ではなくここで感じていたいという気もある。
というわけで、すくなくとも福島の原発事故に一定の目途がたつまではここにいようと思っている。
たぶん、司氏は私を碁でやっつける楽しみが遠のいて嘆くだろうし、前野氏は呑み相手が来ないので、さみしがっていようが、しようがない。我慢してもらう。父は無口な人だったから、まさか墓の中で文句を言うこともあるまい。
ところで、凱風舎のページを開いたとき、緑、黄、橙、緑、橙、黄・・・と並んでるとなんか食欲が湧くというか、かわいくていいなあ。
大石君。毎晩残業や飲酒で大変だろうが、やっぱ《緑》は彩りには欠かせませんぜ。
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